2011年2月28日月曜日

雪の上の血 ヒルダ ロレンス 鈴木幸夫訳

1957

書 名 雪の上の血 世界推理小説全集49 
著 者 ヒルダ ロレンス
訳 者 鈴木幸夫
発行人 小林茂 
発行日 昭和32年2月20日
発 行 東京創元社
発行所 東京都新宿区新宿小川町1−16
印刷者 中内佐光  
判 型 三五判 上製無線綴じ 本文294ページ 函入り
定 価 190円


扉 (監修 江戸川乱歩 植草甚一 吉田健一 大岡昇平)
奥付

雪の上の血 ウラ表紙

【ひとこと】江戸川乱歩は、みずからの編集雑誌『宝石』で、花森安治をこのように紹介している。
——創元社の全集は、花森さんの気のきいた装釘で売れたと云われているほどで、(中略)実は本誌の編集を引受けるときにも、まつ先に花森さんのところへ知惠を借りに行つたものだ——

ま、このような手ばなしの賞賛の辞を目にすれば、全集の監修者であり解説者でもあった植草甚一が、花森のことをうらめしくおもうのもむべなるかなではあるけれど、じっさい乱歩のことばに誇張はない。推理小説本の装釘のイメージを一新したのが花森であり、乱歩の相談相手になれるほど、花森安治は、内外の推理小説に精通していた。

本書の著者ヒルダ・ロレンスは、アメリカの女流作家。解説の中島河太郎が、彼女のことばを引いて、その執筆スタイルを紹介している。
——家庭的な性質のもので、本屋から借りて読む六十歳を越えたお婆さんたちにも分かるようなもの——
花森安治のこころざしに相通じるところがある。

雪の上の血 表紙全体

函 おもて
函 ウラ


巻末掲載の広告(画像の上でクリックすると拡大します)

【もうひとこと】東京創元社の世界推理小説全集は、売れにうれて、別巻ともで全80巻の大シリーズとなった。それらは装釘にびみょうな違いがあるとはいえ、このブログで順につづけても興がそがれるだけ。ときおりアットランダムにご覧にいれることとし、そのつど推理小説と花森安治にかかわる話題をはさむようにしてゆきたい。

全作の広告をしさいに見るのは、古書目録をみるようでたのしい。訳者に大岡昇平、荒正人、鮎川信夫、双葉十三郎、福田恒存、瀬沼茂樹、西脇順三郎、林房雄、吉田健一、木々高太郎らの、なつかしい名まえがつらなっている。かれらにとって翻訳は、内職でもあっただろうが、文章修業に大いに役立ったのではなかろうか。ついでにいっておけば、全集監修者の江戸川乱歩と植草甚一のふたりが翻訳にたずさわっていないことは、ちょっとした謎解きかもしれない。

2011年2月27日日曜日

【森の休日】第1回 友情

ブログを始めてから、早いもので、半年を迎えようとしています。
はじめは私見をまじえず、花森安治の表紙絵と奥付くらいの事項にとどめて、あとはご覧になったかたの感性にまかせよう、そんなつもりでいました。けれども説明らしきものが全くないと、木で鼻をくくったみたいで不親切な気がして、【ひとこと】なんぞという蛇足のコメント欄をもうけました。

ところがこれが、ちかごろは「妄語録」になったきらいもあり、お恥ずかしく、申しわけなく存じております。説明を要するのであれば、やはり【ひとこと】ではムリ。 ことばたらずは誤解をまねくだけでなく、ご覧くださったかたにとって迷惑なだけでしたでしょう。

そこで月水金曜を「花森安治の装釘世界」の更新日としていますが、ときおり日曜にかぎり、タイトルを【森の休日】として、表紙絵の説明にもりきれなかった話のほか、装釘以外の話もまじえて、不定期にのせることにしました。花森安治という編集者のスケールの大きさを理解していただくために、すこしでも役立てばとおもっています。

第1回は、森本薰『女の一生』と杉村春子です。
森本の『女の一生』は昭和21年10月15日、田宮虎彦の文明社から刊行されました。その表紙絵をブログで紹介したとき小生は、「文藝叢書のうち本書だけ、書名および著者名が、右から左へ表記されている。これは花森装釘本のなかでも異例中の異例だ。戦時中の装釘にも例がない。花森に尋ねてみたいことの一つである」と書いています。

1946 文明社文藝叢書
じつは小生にも、一つの理由を想像できたのですが——
森本薰は昭和21年10月6日、肺結核により、34歳の若さでなくなっています。本ができたときは忌中でした。
自著の完成をみることなく森本は世を去っています。その霊前に遺作となった改訂版『女の一生』をそなえるため、花森安治はあえて書名と著者名を逆にした、とは考えられないでしょうか。何か意図があった筈です。

申すまでもなく仏教の葬送様式では、死者にたいしては生者と「逆」にします。しかしこの推論は、あまりに安直すぎて不謹慎かもしれません。

当時、横書きのばあい右から左へ書くのは、まだふつうにおこなわれていました。ひっきょう確たる証拠もない話なのです。ただ『女の一生』だけ逆にしていることで、森本の無念の胸のうちと、田宮と花森の哀悼のおもいが、ふと伝わってくるのです。

『女の一生』は、杉村春子が主人公の布引けい役で、劇団文学座によって演じられました。 文学座は昭和12年、岸田國士、久保田万太郎、岩田豊雄(獅子文六)らが創設した劇団です。杉村春子は創設時の座員で、森本薰は岩田豊雄のすすめで昭和15年に参加したといわれます。戯曲『女の一生』の完成と上演には、森本薫と杉村春子の熱情がありました。

それを小生の小学校以来の畏友、野間正二の解説文からひかせてもらいます。現在、野間は佛教大学文学部教授ですが、姫路市民劇場の公演パンフレットに、30年以上にわたり、いまなお手べんとうで解説文を書き続けています。

——杉村春子は、『舞台女優』という本のなかで、 一番好きな言葉として、「誰が選んでくれたものでもない。自分で選んで歩き出した道ですもの。間違いと知ったら、自分で間違いでないようにしなくちゃ」というセリフを挙げている。(中略)『女の一生』のけいのセリフだ。
杉村春子は、自分が女優という道をひたすら歩いてきたから、このセリフが好きだと語る。つよい女優としての面目躍如たる言葉だ。
もう一つの理由として、原作者森本薰が、自分に語りかけていると肌身に感じられるから、好きだと語っている。
『女の一生』は、森本薰が、杉村春子のために書いた脚本。この脚本を、森本は、杉村と相談しながら、書き進めた。この間に、二人は、熱烈な恋に落ちた。森本には、妻子があったので、『女の一生』を完成し上演することが、二人の背徳の恋の証となった。
また、完成された『女の一生』は、昭和二〇年四月、空襲のさなかに上演された。演じる方も「これが最後の舞台だ」という思いがあり、観る方も「見おさめだ」という切実な思いがあった。実際、これが戦時中の最後の新劇公演となった。——
(所収『芝居もおもしろい』近代文藝社1992年刊)

1947
昭和23年、杉村春子は『女の一生』の演技により、演劇部門で初めての芸術院賞を受賞しています。そのとき劇団からお祝いに鏡台をもらいました。老舗家具屋の職人による手づくりで、できあがるのに月日がかかっただけあって、それは立派なものだったようです。

そのよろこびを杉村は、昭和24年7月発行の『美しい暮しの手帖』第4号にかいています。すなおに書いていますが、森本のことには、いっさいふれていません。「自分で間違いでないようにしなくちゃ」というセリフどおりです。
 
そこで想い出されるのが、検印紙におされていた森と本の奇妙な活字印です。著者である森本薰はなくなっており、みずから検印することができなかったのです。五人のうち森本だけが印鑑をおしていない理由は、それだったのでしょう。印鑑廃止論者ではないか、というのは小生の希望的憶測でした。困惑をあたえたこと、おわびします。

奥付と検印
実際のところ、夫をなくしたばかりの妻のもとへゆき、本ができたから検印してほしいとは、田宮虎彦には言えなかったのではないかしら——野間の言葉をもってすれば、森本の『女の一生』は、杉村春子との「背徳の恋の証」にほかなりません。

小生の感じ方ですけれど、明治生れの日本人は、こまやかな情感を大切にして、つつましく暮していたようにおもえます。

岸田國士、岩田豊雄、森本薰、田宮虎彦、花森安治、杉村春子たちをつないでいるのは、かつての仲間というだけでなく、そこに人間として通いあえる思いがあった、と小生は想像したいのです。

2011年2月25日金曜日

演劇界 昭和22年第6号 

1947

誌 名 演劇界 昭和22年第6号 
通 巻 第5巻第6号
発 行 日本演劇社
発行日 昭和22年9月1日
編集人 安部豊
発行人 安部豊
発行所 東京都中央区築地4−2
印刷人 安部豊
印刷所 大同印刷株式会社
判 型 B5判 平綴じ 表紙共全44ページ(口絵8ページ)
定 価 25円

【ひとこと】昭和22年ころの『演劇界』の編集には、戸板康二がたずさわっていた。戸板は花森安治に「歌舞伎のことを毎号書きませんか」とさそわれて、翌年9月『美しい暮しの手帖』創刊から戸板の「歌舞伎ダイジェスト」がはじまる。花森の企画と人選はみごとあたった。その意味でこの表紙は、翼賛会いらいの二人の再会と、連載約束の記念碑のようにおもえる。それにしても、占領下の『演劇界』の表紙をたどれば、生彩を欠いたままの新派を題材にしたこの表紙が、どれだけ読者衆目をおどろかせたことか。——これって、ふたり共謀の洒落っけ、それとも茶目っけ——粋がりじゃなしに意気だよね。

昭和21、22、23、28年の『演劇界』

【お知らせ】スライドショウの第2巻ができました。よろしければこちらもご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=b7jp334Xtqw

2011年2月23日水曜日

文藝 昭和23年1月号

1948


誌 名 文藝 昭和23年1月号
通 巻 第5巻第1号
発 行 河出書房
発行日 昭和23年1月1日
編集人 杉森久英
発行人 藪下茂
発行所 東京都千代田区神田小川町318
印刷人 小坂孟
印刷所 大日本印刷株式会社
判 型 A5判 平綴じ 表紙共全82ページ(口絵4ページ含む)
定 価 30円

【ひとこと】うっかり見落とすところであったが、表紙絵の下部、うぐいす色の敷物に、MCMXLVⅢという文字列がみえる(画像の上でクリックすれば拡大できます)。しらべたところ、M=1000、C=100、L=50、X=10、V=5、Ⅲ=3を意味することがわかった。すなわち、文字列をルールにしたがってよめば、これは1948、西暦年をあらわしていたのだ。前号はすこし見にくいが、末尾はⅡで1947であった。花森安治の遊びごころが、こんなふうに隠れているのを見つけるのも、またよろこばしからずや、ですよね。

ところで、『文藝』での花森の表紙は、3回かぎりであった。杉森久英はそのてんまつを、やはり『人間の鑑賞』にこのように書いている。
——約束の日に届いた図柄は、(中略)まるで西洋の古道具屋の店先でも見るような意匠のものであった。筆者はこの画が大いに気に入ったが、外部の評判はあまりよくなかったし、社内でも、強硬に反対する空気があった。筆者も、わざわざ反対を押し切ってまで、彼の表紙を続ける必要があるとも思わなかったので、三号で打ち切った——

杉森の著書に『大政翼賛会前後』(文藝春秋、1988年刊)がある。そこでも花森についてふれた箇所があるが、はなはだ感じの悪いかきかたをしている。翼賛会の興亜局につとめていた杉森が、ある日大失態をえんじ、宣伝部にわびてまわったときのことだ。すでに戦局はゆきづまり、花森は文化動員部の副部長にまでかつぎあげられていた。
——花森は、まだ戦後『暮しの手帖』で有名になる前で、私が頭を下げると、あの手焼きセンベイのような、モンゴル系の先祖を思わせる顔を横に向けて、にやりと笑った——

表紙をかいてくれとたのんだのは、編集人の杉森久英であった。大失態をえんじ、職場内外に大きな迷惑をかけたのも、おなじ翼賛会職員の杉森久英であった。あいての表情をうかがいながら、それで頭をさげたといえるか。「オレは悪くない」と、顔にも行間にも、書いてある。だれだって苦笑せざるをえまい。杉森はじぶんでオトコを下げている。しごとは評価できるが、その人品を、小生はいまだに好きになれぬ。

2011年2月21日月曜日

文藝 昭和22年12月号

1947

誌 名 文藝 昭和22年12月号
通 巻 第4巻第10号
発 行 河出書房
発行日 昭和22年12月1日
編集人 荒川竹志
発行人 藪下茂
発行所 東京都千代田区神田小川町318
印刷人 小坂孟
印刷所 大日本印刷株式会社
判 型 A5判 平綴じ 表紙共全68ページ
定 価 20円

【ひとこと】『文藝』は、もと改造社から刊行されていた。昭和19年いわゆる「横浜事件」、軍部の言論弾圧により、中央公論社とともに解散を余儀なくされ、やむなく誌名を河出書房に譲渡している。敗戦後、改造社は復活したが、河出から誌名がもどることはなかった。『文藝』の産みの親は、改造社の山本實彦である。

この号の編集人は、奥付では荒川竹志となっているが、じっさいは杉森久英がひきついでいた。花森安治に表紙をかかせたゆきさつを、のちに杉森はこう書いている。
—— 終戦後二年、ちょうど筆者は文芸雑誌『文芸』の編集を担当することになったので、新しい空気を導入するつもりで、花森に表紙のカットを注文した——(『人間の鑑賞』PHP研究所、1991年刊)
だが、花森の表紙は、ながく続かなかった。そのことは次回に述べる。

2011年2月18日金曜日

青空士官 吉川英治

1947

書 名 青空士官 吉川英治選集 第二巻
著 者 吉川英治
発行人 早川清 
発行日 昭和22年2月20日
発 行 早川書房
発行所 東京都千代田区神田多町2−2
印刷者 牧恒夫
印刷所 株式会社大化堂 
判 型 B6判 上製平綴じ 本文202ページ
定 価 60円

【ひとこと】士官とあるから戦記物かとおもったけれど、若い男女の通信技師の恋愛小説。はつらつとしたコメディー。舞台も戦後である。
では、なにゆえ花森安治はこの表紙絵にしたのか。ヒントは、表紙に描かれているマガジンラックの中。新聞とハトの雑誌(どちらも英字)にあった。本書刊行当時もまだ、新聞社では屋上でハトを飼い、通信手段としてつかっていたのだ。「通信戦士」と称され、親しまれていたらしい。敗戦後、なにもモノがない時代がつづいていた。この絵には、これから結婚するふたりの暮しへの夢と、あこがれがある。

なお、新聞社とハトについては、岡崎武志著『古本生活読本』(ちくま文庫)の「伝書鳩は空を翔るファックス」にさまざまな情報がふくまれており、目からウロコかもしれませんよ。



奥付
ウラ表紙
表紙全体

【もうひとこと】早川書房は、昭和20年に創業し、いまもつづく雑誌『喜劇悲劇』を復刊させた。本書刊行のころは草創期で、いわばベンチャー出版社ならではの元気を感じさせる。

第1巻 装釘・住川雅鴻
たとえば吉川英治選集の第1巻『かんかん蟲は唄ふ』の装釘は、花森安治ではなく、ひだりのように住川雅鴻であった。いかにも古色蒼然だ。きりかえの早さが新興出版社には求められる。
経営者の的確な判断が、会社とそこに働く人びとの命運を左右するのは、出版界もおなじであろう。
 








第1巻末 広告
ちなみに第1巻末の広告は、小生個人としてうれしい。
『凧 探偵小(説)傑作集』の大下宇陀兒は、花森安治が高くかっていた探偵小説作家であるが、いま小生がすんでいる長野県箕輪町の出身なのだ。
このころすでに早川清は、推理小説の分野で、出版界の雄になることをめざしていたのだろうか。出版は心意気であり、野心でもある。


2011年2月16日水曜日

絡む妖美 佐藤垢石

1949

書 名 絡む妖美 
著 者 佐藤垢石
発行人 森北常雄 
発行日 昭和24年1月30日
発 行 ロッテ出版社
発行所 東京都千代田区神田小川町3−10富士ビル内 
印刷所 石炭文化印刷株式会社 
判 型 B6判 上製平綴じ(糸) 本文294ページ
定 価 200円



目次

【ひとこと】佐藤垢石は、つり人社の創業者。釣りジャーナリズムをきりひらいた随筆家。元報知新聞社の記者で、現地に取材した描写がたしかなだけに、その軽妙な語り口に、ついのせられてしまう。
扉の絵は、川辺で昼寝をしているうちに皮を盗まれて途方にくれる河童の話にもとづいているのだが、あの有馬頼寧が河童の皮を秘蔵しているかも知れぬ、とおくめんもなく書く垢石の洒脱さには、ふき出さずにいられない。おとなのファンタジーであり、上質のエンターテイメントなのだ。おどろおどろしげな表紙で、魑魅魍魎があらわれてきそうだけれど、読みたくなる衝動は、あらがいがたいものがありますぞ。それはまた、花森安治の装釘の魅力、といってよいのではありますまいか。

奥付
ウラ表紙

表紙全体

2011年2月14日月曜日

最新出版社執筆者一覧 昭和21年度版

1946

書 名 最新出版社執筆者一覧 昭和21年度版
編輯人 田所太郎
発行人 石井滿 
発行日 昭和21年9月20日
発 行 日本出版協會
発行所 東京都神田区淡路町2−9
印刷者 荒井政吉
印 刷 東光印刷株式会社 
判 型 B6判 並製平綴じ 表紙共全248ページ
定 価 10円

奥付

【ひとこと】装釘が花森安治であるとは、本書のどこにも記されていない。小生の独断である——と開きなおるまでもなく、だれの目にも花森の描き文字であることは明らかであろう。製図用の丸ペンをもちいたヨコの画(線)の細さ、とめの力強さは、花森ならではの持ち味。ここでは躍動感が加味されて、名簿なのに、なんだかたのしげだ。

花森安治が所属していた大政翼賛会は、敗戦の2カ月前に解散している。浪々の身となった花森は、妻子をやしなうため、松江高校いらいの親友田所太郎が編集する『日本読書新聞』のカットをかきながら、出版界の情報をえていた。当時、田所のもとで働いていたのが大橋鎮子で、このときの花森との出会いが衣裳研究所(暮しの手帖社の前身)の創設へとつながってゆく。この経緯は、たびたび語られているところである。

衣裳研究所の記載ページ (画像の上でクリックすると拡大できます)

ウラ表紙

【もうひとこと】花森装釘本をあつめるにあたっては、全国の古書店のおせわになっている。金沢文圃閣の田川浩之さんもそのお一人だが、註文書籍と共に、たくさんの自社刊行案内書を送ってくださった。 戦前から戦後にかけての出版界の動向について、多くの文献資料をあつめ整理し上梓されている。その造詣の深さは瞠目するばかりだ。新しいものだけで、それも東京一辺倒の情報だけで、文化は醸成されるのではないことを再認識させていただき、元気づけられた。お礼申しあげます。

金沢文圃閣『戦後初期出版社と文化人一覧』パンフ裏面

田川さんは、『戦後初期の出版社と文化人』全4巻のパンフレットにそえて、下掲の昭和23年版と26年版表紙のコピーを送ってくださった。田川さんのお見立てどおり、これらは花森安治の描き文字ではない。年度部分は色版(別版)なのだから、数字を入れかえれば元版を流用できたのだが、亜鉛版を鋳つぶしたのかしら。それにしても格のちがいは歴然である(収載内容ではない。念のため)。
 
昭和23年版および26年版の表紙コピー

2011年2月11日金曜日

女の四季 舟橋聖一

1948

書 名 女の四季 
著 者 舟橋聖一
発行人 森北常雄 
発行日 昭和23年10月25日 昭和24年6月15日再版
発 行 ロッテ出版社
発行所 東京都千代田区神田小川町3−10富士ビル内 
印刷所 石炭文化印刷株式会社 
判 型 B6判 並製平綴じ カバー欠 本文346ページ
定 価 150円



目次

【ひとこと】花森安治による舟橋聖一作品の装釘3冊め。
装釘家には、作品をよんで装釘するタイプと、よまないで装釘するタイプがいる。こういう表紙絵にであうと、花森は、作品をよく読みこんで装釘していたことがわかる。
だらしなく置かれた着ものと帯、洗練とはほど遠いその色合い——
幸うすかった女の、人生の脱け殻そのものだ。貧しさのにおいがただよい、重苦しいあえぎが聞こえてくる。それこそ本書に一貫してひびく不協和音なのだけれど、整然と調和のとれた花森の構図になれた目には、うけいれにくく、いぶかしさがのこる表紙絵だ。『暮しの手帖』に舟橋聖一の随筆がのせられることは、なかった。


奥付

女の四季 ウラ表紙

女の四季 表紙全体

【もうひとこと】ロッテ出版社のことは、よくわからない。現在の理工系書籍出版社、森北出版の前身であるようだ。本書ページ末に、久米正雄『赤光』、川端康成『白い満月』、藤澤恒夫『彼女は答へる』、佐藤垢石『絡む妖美』、三宅やす子『未亡人論』の自社広告があるほか、太宰治『誰も知らぬ』、海野十三『大宇宙探険隊』を刊行したことはたしかである。

2011年2月9日水曜日

満月 舟橋聖一

1947

書 名 満月
著 者 舟橋聖一
発行人 久保藤吉 
発行日 昭和22年9月25日初版 昭和23年11月30日再版
発 行 大元社
発行所 東京都中野区江古田1−2302
印刷人 久保宇之助
製本人 久保長吉
判 型 B6判 上製平綴じ カバー付 本文278ページ
定 価 120円(再版時)


満月 目次

【ひとこと】舟橋聖一は戦後、菊池寛をたすけて文藝家協会の再興にのりだし、初代理事長をつとめた。いまはなき大元社は、舟橋が理事長時代、日本文藝家協会編『現代小説代表作選集』3巻や『文藝手帖』をだした出版社である。
このころの花森安治は、装釘家として活躍の場をもとめ、協会にかかわろうとしていたのではないか。花森は舟橋の3作品を装釘し、機関誌『文學会議』(講談社刊)の表紙絵もかいている。ちなみに当時の協会理事には、中野重治、井上友一郎、石川達三らが名をつらねており、かれらの作品も花森は装釘した。


見返し 前後同一デザイン
奥付
満月 ウラ表紙

【もうひとこと】『満月』は昭和24年、監督田中重雄で映画化された。朴訥な百姓男(藤田進)の、奔放な芸者(花柳小菊)にかけた、いちずな愛がテーマである。通俗的ではあるが、舟橋のペンは、当時の農村の暮しと、都市の社会世相をうつしており、男と女のつきなみな愛欲ものに堕してはいない。
しかるになぜか、本書には志村立美がかいたカバーがかけられた。初版からかけたかどうかわからぬが、上品な絵とは、いいがたい。売らんがためであったならば、いかにもあざとい。著者の舟橋聖一はもとより、絵をかかされた志村立美も、いまごろ泉下で、忸怩たる思いをしているのではないか。以上、小生のモノの見方である。


花森安治の表紙

志村立美のカバー

2011年2月7日月曜日

新樹 大佛次郎

1949

書 名 新樹 
著 者 大佛次郎
発行人 田中延二 
発行日 昭和24年7月10日
発 行 苦楽社
発行所 東京都中央区銀座西8−5(日吉ビル)
印刷所 ダイヤモンド印刷株式会社 
判 型 B6判 上製平綴じ(糸)カバー欠 本文328ページ
定 価 250円



奥付

新樹 ウラ表紙

【ひとこと】苦楽社は、大佛次郎という逸材をえて、海軍放出の印刷用紙で雑誌『苦楽』を復刊させ、戦後のつかのま出版界を風靡したことで知られる。本書の刊行時は、資金のうしろ楯であった元海軍御用達印刷会社文寿堂からはなれ、経営がゆきづまったころか。
奥付から大佛次郎と花森安治のつながりが見えてくる。苦楽社がはいっていた日吉ビルの3階には、暮しの手帖社(当時は衣装研究所)も入っていた。ダイヤモンド印刷は、 田宮虎彦の文明社の版行をうけおっていた印刷所。小生は晩年の花森しか知らないが、若いころ「めんどうみのよい苦労人」と称された花森のすがたが、かいま見えるようだ。ちなみに昭和24年1月発行の『美しい暮しの手帖』第2号に、大佛次郎の「樹を植ゑる」と題する随筆をのせている。本書には一切ふれさせていない。それが花森安治の流儀であった、と小生はおもう。

<見返し>ウラ表とも同一デザイン、附箋は古書店が貼ったのか

表紙全体