2011年2月27日日曜日

【森の休日】第1回 友情

ブログを始めてから、早いもので、半年を迎えようとしています。
はじめは私見をまじえず、花森安治の表紙絵と奥付くらいの事項にとどめて、あとはご覧になったかたの感性にまかせよう、そんなつもりでいました。けれども説明らしきものが全くないと、木で鼻をくくったみたいで不親切な気がして、【ひとこと】なんぞという蛇足のコメント欄をもうけました。

ところがこれが、ちかごろは「妄語録」になったきらいもあり、お恥ずかしく、申しわけなく存じております。説明を要するのであれば、やはり【ひとこと】ではムリ。 ことばたらずは誤解をまねくだけでなく、ご覧くださったかたにとって迷惑なだけでしたでしょう。

そこで月水金曜を「花森安治の装釘世界」の更新日としていますが、ときおり日曜にかぎり、タイトルを【森の休日】として、表紙絵の説明にもりきれなかった話のほか、装釘以外の話もまじえて、不定期にのせることにしました。花森安治という編集者のスケールの大きさを理解していただくために、すこしでも役立てばとおもっています。

第1回は、森本薰『女の一生』と杉村春子です。
森本の『女の一生』は昭和21年10月15日、田宮虎彦の文明社から刊行されました。その表紙絵をブログで紹介したとき小生は、「文藝叢書のうち本書だけ、書名および著者名が、右から左へ表記されている。これは花森装釘本のなかでも異例中の異例だ。戦時中の装釘にも例がない。花森に尋ねてみたいことの一つである」と書いています。

1946 文明社文藝叢書
じつは小生にも、一つの理由を想像できたのですが——
森本薰は昭和21年10月6日、肺結核により、34歳の若さでなくなっています。本ができたときは忌中でした。
自著の完成をみることなく森本は世を去っています。その霊前に遺作となった改訂版『女の一生』をそなえるため、花森安治はあえて書名と著者名を逆にした、とは考えられないでしょうか。何か意図があった筈です。

申すまでもなく仏教の葬送様式では、死者にたいしては生者と「逆」にします。しかしこの推論は、あまりに安直すぎて不謹慎かもしれません。

当時、横書きのばあい右から左へ書くのは、まだふつうにおこなわれていました。ひっきょう確たる証拠もない話なのです。ただ『女の一生』だけ逆にしていることで、森本の無念の胸のうちと、田宮と花森の哀悼のおもいが、ふと伝わってくるのです。

『女の一生』は、杉村春子が主人公の布引けい役で、劇団文学座によって演じられました。 文学座は昭和12年、岸田國士、久保田万太郎、岩田豊雄(獅子文六)らが創設した劇団です。杉村春子は創設時の座員で、森本薰は岩田豊雄のすすめで昭和15年に参加したといわれます。戯曲『女の一生』の完成と上演には、森本薫と杉村春子の熱情がありました。

それを小生の小学校以来の畏友、野間正二の解説文からひかせてもらいます。現在、野間は佛教大学文学部教授ですが、姫路市民劇場の公演パンフレットに、30年以上にわたり、いまなお手べんとうで解説文を書き続けています。

——杉村春子は、『舞台女優』という本のなかで、 一番好きな言葉として、「誰が選んでくれたものでもない。自分で選んで歩き出した道ですもの。間違いと知ったら、自分で間違いでないようにしなくちゃ」というセリフを挙げている。(中略)『女の一生』のけいのセリフだ。
杉村春子は、自分が女優という道をひたすら歩いてきたから、このセリフが好きだと語る。つよい女優としての面目躍如たる言葉だ。
もう一つの理由として、原作者森本薰が、自分に語りかけていると肌身に感じられるから、好きだと語っている。
『女の一生』は、森本薰が、杉村春子のために書いた脚本。この脚本を、森本は、杉村と相談しながら、書き進めた。この間に、二人は、熱烈な恋に落ちた。森本には、妻子があったので、『女の一生』を完成し上演することが、二人の背徳の恋の証となった。
また、完成された『女の一生』は、昭和二〇年四月、空襲のさなかに上演された。演じる方も「これが最後の舞台だ」という思いがあり、観る方も「見おさめだ」という切実な思いがあった。実際、これが戦時中の最後の新劇公演となった。——
(所収『芝居もおもしろい』近代文藝社1992年刊)

1947
昭和23年、杉村春子は『女の一生』の演技により、演劇部門で初めての芸術院賞を受賞しています。そのとき劇団からお祝いに鏡台をもらいました。老舗家具屋の職人による手づくりで、できあがるのに月日がかかっただけあって、それは立派なものだったようです。

そのよろこびを杉村は、昭和24年7月発行の『美しい暮しの手帖』第4号にかいています。すなおに書いていますが、森本のことには、いっさいふれていません。「自分で間違いでないようにしなくちゃ」というセリフどおりです。
 
そこで想い出されるのが、検印紙におされていた森と本の奇妙な活字印です。著者である森本薰はなくなっており、みずから検印することができなかったのです。五人のうち森本だけが印鑑をおしていない理由は、それだったのでしょう。印鑑廃止論者ではないか、というのは小生の希望的憶測でした。困惑をあたえたこと、おわびします。

奥付と検印
実際のところ、夫をなくしたばかりの妻のもとへゆき、本ができたから検印してほしいとは、田宮虎彦には言えなかったのではないかしら——野間の言葉をもってすれば、森本の『女の一生』は、杉村春子との「背徳の恋の証」にほかなりません。

小生の感じ方ですけれど、明治生れの日本人は、こまやかな情感を大切にして、つつましく暮していたようにおもえます。

岸田國士、岩田豊雄、森本薰、田宮虎彦、花森安治、杉村春子たちをつないでいるのは、かつての仲間というだけでなく、そこに人間として通いあえる思いがあった、と小生は想像したいのです。