2011年3月27日日曜日

【森の休日】第2回 戦争中の暮しの記録

1969

書 名 戦争中の暮しの記録 保存版
編 者 暮しの手帖編集部
発行人 大橋鎭子
発行日 昭和44年8月15日
発 行 暮しの手帖社
発行所 東京都中央区銀座8−5−15
印刷所 大日本印刷株式会社
判 型 B5判 本文294ページ
装 本 布クロス上製 角背ミゾつき型押し カバー ビニール掛 
定 価 850円(但し初版第1刷時、現在2310円) 


本体 表紙

小生が『暮しの手帖』の編集部員になったのは昭和47年春のこと。
そのころ編集部は東麻布にあり、屋上にかかげた<暮しの手帖研究室>の文字看板が、首都高速道上からよく見えました。研究室には地下室もあり、記事でとりあげた商品や撮影用につかう小物類をしまっていたのですが、奥の一角に、大きな段ボール箱がいくつも積み重ねてありました。読者からの「戦争中の暮しの記録」への応募原稿で、その総数1736篇、箱ごとに貼紙をして、テーマ別に整理保存されていたのです。それはあたかも『暮しの手帖』編集部の礎石のようでした。いま、研究室はなくなりましたが、地下室でじっと動かぬ段ボール箱が、まぶたの裏に焼きついています。

1968 暮しの手帖96号表紙

花森安治と『暮しの手帖』のことは、新聞や雑誌あるいは書籍で、さまざまな人が論じてきました。丹念な取材をもとに『花森安治の仕事』をまとめた酒井寛、あまり知られてはいないけれど、長年の読者としての立場から花森安治論をかいた茨木のり子——小生はこのふたりを双璧とおもっています。茨木は「『暮しの手帖』の発想と方法」と題し、つぎのように書きました。長い引用ですが、どうか読んでください。

——九十六号は一冊全部を投稿による「戦争中の暮しの記録」にあて、これまた徹底的に具体的に衣食住の記録で埋っていて、読了後、そのとりとめなさを如何ともなしがたかった。体験をくぐりぬけて得た個人の思考、思想はほとんど語られていなかったからである。

しかし次の号で、この記録を読んだ若い人たちの多種多様の手記が載り、さらにまた次の号で「戦争体験をした大人から戦争を知らない若い人へ」という手記が特集された。この号には戦中派の体験をくぐりぬけた、しかも何ものにも捉われない個人の思考が随所にひらめいていて、同世代の私としてはもっとも触発されるものが多かった。

これら三つは三部作と言うべきものだが、九十六号の「戦争中の暮しの記録」が徹底して暮しの記録にとどまったのは、あるいは賢明であったのかもしれぬ。事実だけを明瞭に置き、判断は読者に任せるというのが、『暮しの手帖』の、これまた基本方針とも言えるものだからである。歳月がすぎてゆけば、なまなかの思考よりも庶民の暮しの記録の方が強くものを言う。遠い歴史をふりかえってみれば、そのことがよくわかる。編集部の人びとはそれを知ってのことだったろうか?——
『講座コミュニケーション4 大衆文化の創造』所収、研究社1973年刊

茨木のり子は、本名の三浦のり子で<暮しの手帖協力グループ>に参加していました。協力グループとは、調査やアンケートに協力してくれる読者のことで、全国に1000人以上いて、いずれも暮しの手帖を毎号読んでおり、的確に回答できる人びと——茨木はその一員でした。花森安治が誇る「質のよい読者」のひとりだったのです。

昔も今も、ろくすっぽ読んだこともないくせに、ワケ知り顔で『暮しの手帖』や花森安治を論じる御仁がいるけれど、さすが茨木は、そんな愚かなマネはしていません。花森安治を、あるいは戦争を論じるのであれば、せめて茨木のり子のエッセイを読んでからにしたいものです。じぶんの暮しをとおして考え、鍛え、磨きあげられた思想があります。

1968 暮しの手帖97号 ウラ表紙

特集号の次号のウラ表紙。コピーはもちろん花森安治。これを読み返しているとき、こんどの大震災の惨状が重なってきました。かりにいま花森安治と茨木のり子のまなざしの先に何かがあるとすれば、それは罹災した人びとのやり場のない悲しみと、困難な暮しぶりではないでしょうか。罹災した人びと、現地で救援活動にあたった人びとによる、その具体的で詳細な記録こそ、これから起こりうる災厄にそなえ「強くものを言う」と、ふたりが示唆しているようにおもえてなりません。

*画像の上でクリックすると拡大します。見出しの描き文字「ぼろぼろに」の下に、句点のように見える○はチリによる印刷ムラ。なお保存版には、96号の特集のほか、97号および98号の読者投稿記事も合せて収載されています。わたしたちの両親、兄や姉、おじいちゃんやおばあちゃんたちが、懸命に生きぬいたあかしです。読んでみませんか。


【追記】山田風太郎の著に『戦中派不戦日記』(講談社文庫、新装版2002年刊)があります。その「まえがき」に、山田はこのように書きました。これも少し長くなりますが、引用して供します。

「戦記や外交記録に較べれば、一般民衆側の記録は、あるようで意外に少ない。さらにその戦記や外交記録にしても、その記録者が出来事に直接参加していなかったり、また参加しているにもかかわらず、記録者自身の言動、そのなまの耳目にふれた周囲の雰囲気を活写したものが稀である。敗戦後十年ばかりこの現象を、私は記録者がアメリカに対して憚っているものと思っていた。

ところが、その後に至っても次々に出て来た記録は、数字的には正確になった一面はあるものの、他方、意識的無意識的にかえって嘘や法螺や口ぬぐいや回想には免れがたい変質の傾向が甚だしくなったように感じられる。むしろ終戦直後のものの方が、腹を立てて書いているだけにかえって真実の息吹を伝えているものが多いことを再発見した。

だから、あの戦争の、特に民衆側の真実の脈搏を伝えた記録がほしい——例えば、突飛な例を持ち出すようだが、戦国時代における民衆の精細な記録があれば今どれくらい貴重な文献になるだろう——と私は思う。私のみならず、さきに「暮しの手帖社」が、戦争中の「暮しの記録」を出版したのも同じ気持からであろうと思う」


【おしらせ】4月1日金曜日より平常の更新とします。


2011年3月12日土曜日

お見舞い

東北地方太平洋沖地震罹災地のみなさまへ、お見舞い申しあげます。
一刻も早い救援と、安全な暮しが確保されますこと、祈念いたします。

ブログの更新を、しばらく控えさせていただきます。ご了承ください。
唐澤平吉

2011年3月11日金曜日

知と愛 深田久彌

1948

書 名 知と愛 青春叢書
著 者 深田久彌 (1903−1971)
発行人 永井直保 
発行日 昭和23年4月10日
発 行 永晃社
発行所 東京都世田谷区下代田町92
印刷所 永井印刷工業株式会社 
判 型 B6判 上製糸綴じ 丸背ミゾ 本文300ページ
定 価 110円

見返し
ウラ表紙


【ひとこと】深田久彌は後年『日本百名山』で読売文学賞をとり、山岳随筆家として有名になったが、小説家として本書を上梓したころは、作家人生の谷底であったかもしれぬ。糟糠の妻と称せられた病身の北畠八穂をうらぎった後である。文人の私生活にはまれにある話だけれど、深田のばあい二重の弱味があった。もの思いにふけるように見える表紙絵の女性に、北畠の姿が、どうしても重なって見えてしまう。

扉とウラ表紙の朱印は、蔵書印。本を失くしたくない気持はわかる。でも、おす場所を考えないと、所有者の品性までもが疑われる。ま、蔵書印をもたぬ者のひがみかもしれないけれど。

本書は、永晃社の青春叢書の一冊である。叢書の全容を知らない。小生が把握しているのは 『知と愛』のほかには、南陀楼綾繁さんが所蔵する久米正雄『嘆きの市』、芹沢光治良文学館が所蔵する『美しき秩序』の 三冊である。(下記は芹沢光治良文学館のページ)

表紙はおなじ女性をモデルにしているとおもわれるが、衣裳やポーズはちがう。花森がえがく細面の女性をみていると、花森夫人の若かりし日がしのばれる。美しい人と評判であった。まさに美女と——やめておこう、「キミは、なんでもひとこと多すぎる」と、また叱られそうだ。

奥付

【もうひとこと】永晃社は、戦後、絵本などもだしていた出版社。発行者の永井直保の名まえで検索してみると、創元社がだした大岡昇平『野火』の印刷者としてひっかかり、とりもなおさずそれは永井印刷工業の経営者であった。兼業していたのである。出版業はやめてしまったが、印刷業のほうは現在も子孫にうけつがれ健在のようだ。
日をあらためて紹介するが、花森安治は永晃社がだした高見順『神聖受胎』の装釘もしている。


表紙全体

2011年3月9日水曜日

ソロの音楽師 多田裕計

1948

書 名 ソロの音楽師
著 者 多田裕計(1912−1980)
発行人 木村健一 
発行日 昭和23年11月1日
発 行 富國出版社
発行所 東京都千代田区富士見2−9
印刷者 奈良直一
印刷所 常磐印刷所 
判 型 B6判 上製平綴じ 本文252ページ
定 価 120円


扉(画像の上でクリックすると拡大できます)

目次(1)
目次(2)と本文扉

【ひとこと】多田裕計は昭和16年、小説『長江デルタ』で芥川賞受賞。俳人でもある。表紙絵から、音楽のソリストの話かとカン違い。
ソロとは、インドネシア・ジャワ島の古都の旧地名で、かつて日本でもよく歌われた『ブンガワン・ソロ』の ソロ、現在のスラカルタである。ものを知らぬ小生、またもや馬脚をあらわすところであった。

表紙に描かれた楽譜にもJAVAと記され、扉にも「倣巴黎島人之ゑH写」と花森の但書がそえられている。わざわざ「バリ島の人が描いたゑに倣いHが写した」とことわるのだから、オリジナルではないのはわかるけれど、こんなところに花森安治のきまじめな性分があらわれているとおもう。コピペになれると、自他のケジメがつかなくなる。いまの時代、それがこわい。むろん自戒である。

奥付 検印紙は剥がされている
ウラ表紙

【もうひとこと】富國出版社の木村健一は文芸書のほか、戦後、雑誌『少女世界』を復刊させて知られた。ちなみに津村節子は、本名の北原節子で『少女世界』に初登場したのだとか。これも余談であるが、戦前からの少女雑誌を数多く収蔵している公立図書館があることを知った。熊本県の菊陽町図書館がそれだ。村崎修三氏がコレクションを寄贈したという。興味のあるかたは図書館ホームページをごらんください。
http://www.kikuyo-lib.jp/hp/


表紙全体

2011年3月7日月曜日

けやきのちかい 新青年文化協會編

1948

書 名 けやきのちかい
編 者 新青年文化協會
発行人 中村梧一郎 
発行日 昭和23年2月1日
発 行 八雲書店
発行所 東京都文京区森川町111
印刷者 塚田十五郎
印刷所 塚田印刷所 
判 型 B6判 上製平綴じ 本文246ページ
定 価 120円(改訂価)

目次

【ひとこと】戯曲集である。戦後、八雲書店が発行した農山漁村むけ雑誌『若い農業』にのせた脚本をあつめたもので、目次をみてわかるとおり、作者の革新性はつよいが、一つの政党色にはそまっていない。民主主義のありかたや、自由をもとめ啓蒙する作品がおさめられている。

花森安治の表紙から、農山漁村という雰囲気は、つたわらない。疎開先から都市へもどったばかり、荷をほどく前といったところ。それに比して扉の絵は対照的だ。背負子(しょいこ)をていねいに描いている。都会育ちや若い人にはなじみがないだろうが、荷をせおうための暮しの民具であった。むかしは都会の小学校でも、校庭で二宮金次郎少年が愛用していたから知られていたけれど、いまは地方でも見かけない。ただ、小生が子どものころ丹波の山里で目にしたものと、花森がえがいたものは、すこし構造やつくりがちがうようだ。

それにしても花森の描く表紙には、こうもり傘がよく登場する。コンビニでビニール傘が買えるいまの生活感覚では、井上陽水の名曲『傘がない』すらも、きっと理解しがたいにちがいない。

見返しに貼った奥付、値札も貼り直してある
ウラ表紙

【もうひとこと】八雲書店と中村梧一郎についての資料は少ない。比較的まとまっているのは、大輪盛登著『巷説出版界』(エディター叢書14、エディタースクール出版部1977年刊)であろう。これには『暮しの手帖』と花森安治についての一章もおさめてあり、戦後の出版界について教えられるところが多い。ただし、著者もことわっているように「巷説」の部分もある。

表紙全体

2011年3月4日金曜日

東京の谿間 寺崎浩

1947

書 名 東京の谿間
著 者 寺崎浩
発行人 中村梧一郎 
発行日 昭和22年11月30日
発 行 八雲書店
発行所 東京都文京区森川町111
印刷者 山元正宣
印刷所 三晃印刷株式会社 
判 型 B6判 上製平綴じ 本文238ページ
定 価 75円

見返しに貼った奥付 
ウラ表紙
【ひとこと】寺崎浩を紹介した記事をみると、詩を西条八十、作曲とピアノを小松耕輔、小説を横光利一に師事したとされている。しかし本書後記には「この書を書きすすむことが出來たのはひとへに川端康成氏の援助と激勵によるのであつて、この作を川端康成氏に捧げたい」と結ばれていた。横光利一が急逝したのは、本書が出たあとの昭和22年12月30日のことだから、寺崎はすでに「師離れ」していたのだろうか。

扉の絵のあつかいに趣向をこらしている。ヨコ長の風景画の角度を変えてタテにあしらい、なおかつ扉ページの端まで印刷して余白をのこさない裁ち切りにした。つまり、絵の両端と地の部分3ミリをカットしている。挿絵画家の作品であれば、装釘者の花森に、こんな「乱暴」はできない。じぶんで絵をかいたからこそ大胆になれるのだろう。とはいえ自由を得るには、いささかの勇気がいるものだ。

藤田加奈子さんのブログ『日用帳』には、寺崎浩が装釘した西村晋一著『演劇明暗』(沙羅書店、昭和12年)が紹介されている。寺崎は、劇作家真船豊とも親交があったといわれており、その二人の作品を、花森安治はどのような経緯から装釘することになったのか、興味深いところである。正直にいえば、戦後まもない時期の花森のしごとについて、小生はまったく知らなかった。いまになって悔やまれる。

表紙全体

扉を横にすると、正面中央には駅の高架ホーム。どこの駅かしら?

2011年3月2日水曜日

姉妹 眞船豐

1947

書 名 姉妹
著 者 眞船豐 (真船豊)
発行人 中村梧一郎 
発行日 昭和22年10月10日
発 行 八雲書店
発行所 東京都文京区森川町111
印刷者 竹澤眞三
印刷所 中央印刷社 
判 型 B6判 上製平綴じ 本文232ページ
定 価 75円


奥付
ウラ表紙

【ひとこと】満洲から引き揚げてきた姉妹をえがく戯曲である。テーマは敗戦後の日本社会への適応困難。しかし、ほんとうに困難をきたしていたのは姉妹ではなく、価値観の変革をせまられた男たちであり、その葛藤を描いた戯曲といえよう。

扉の靴の絵は、姉の文子のセリフ——ああ、ハルビンに帰りたい……あの楡や白樺の落葉が、街路の石畳の上にいつぱいカサカサと散つて……この足でコツコツと思ふ存分……石畳を靴の音を高く立てて踏んで見たい——から着想を得たのであろうか。

HARBINという靴底の文字に、あるいはブランド名かとおもってしらべてみたが、おそらく花森が遊びでつくった架空の商標である。
花森安治といえば、『暮しの手帖』の商品テストのイメージがつよいせいか、なにごとにも厳格で、ユーモアも通じないガチガチ人間とおもわれているフシがあるが、大きな誤解というべきだ。ものまねやダジャレがすきで、子どもみたいなところもある、たのしいオジサンでした。


表紙全体

【もうひとこと】姉妹がハルビンで住んでいた家は、ふたりのセリフから察するに、表紙の絵のような洋館らしい。壁にROMANOFKAというなにやらおもわせぶりな貼紙がみえるが、ハルビンが帝政ロシアの影響をうけた街であることは、ご存じの通り。ウィキペディアでハルビンをしらべると、けっこう詳しくのっている。音楽の朝比奈隆、山田一雄、加藤登紀子、絵画文藝では岸田劉生、尾崎放哉、早乙女貢、政官では伊藤博文、後藤新平、杉原千畝、そして近衛秀麿文麿ら、ゆかりのある日本人が多い。ウィキペディアの記述は、なかには気をつけないといけない項目もあるが、地理に関しては、信頼性が高いようにおもう。