2011年5月30日月曜日

アメリカほら話 井上一夫訳編

1962


書 名 アメリカほら話 世界ユーモア文学全集別巻
訳編者 井上一夫(1923−2003)
発行人 古田晁 
発行日 昭和37年5月10日
発 行 筑摩書房
発行所 東京都千代田区神田小川町2−8
印 刷 凸版印刷株式会社
製 本 藤田製本
判 型 B6判 上製函入り 角背ミゾ平綴じ 本文280ページ
定 価 290円


本体表紙

【ひとこと】井上一夫は、慶應義塾大学文学部を卒業後、雄鶏社で延原謙のもと『雄鶏通信』の編集にたずさわった。その延原は、戦前『新青年』の編集長として海外推理小説の翻訳紹介につくした。翻訳家としての井上一夫を知らない人も、ジェームズ・ボンドやスティーブ・キャレラ、映画やテレビで演じたショーン・コネリーやロバート・ランシングはおなじみであろう。それらの人気シリーズを数多く翻訳したのが井上一夫である。語学の苦手な小生が海外小説を苦もなくよめたのは、かれら翻訳家のおかげであった。


全集案内


【もうひとこと】上が別巻末掲の全集刊行案内。全集別巻ともに函入りだが、函に特色がある。ひとつは、別巻はふつうの函だが、全集は背のない筒函になっている。もうひとつは、本体の表紙デザインはモノクロ仕上げで同一だが、函はそれぞれ色を変えている。経年による色褪せと傷みで、刊行時の美しさや鮮やかさはないが、ならべてごらんにいれる。花森安治の色彩感覚が、わずかでもしのばれよう。どこかなつかしい色合いだ。

どうしたことがきっかけだったのか、遠い日のことで記憶もあやふやだが、洗練された配色の美しさとして、花森は日本の襲(かさね)や韓国のチマチョゴリの色合せを言っていたことがあった。


2011年5月27日金曜日

ふらんす小咄大全 河盛好蔵訳編

1961


書 名 ふらんす小咄大全 世界ユーモア文学全集別巻
訳編者 河盛好蔵(1902−2000)
発行人 古田晁 
発行日 昭和36年12月5日
発 行 筑摩書房
発行所 東京都千代田区神田小川町2−8
印 刷 凸版印刷株式会社
製 本 藤田製本
判 型 B6判 上製函入り 角背ミゾ 平綴じ 本文310ページ
定 価 290円


本体 表紙


【ひとこと】筑摩書房『世界ユーモア全集』全15巻は、昭和35年から37年にかけて刊行された。ほかに別巻が3冊あり、本書はその1冊。あえて別巻をえらんだのは、訳編者が河盛好蔵だからである。

いずれごらんいただくが、河盛好蔵には新潮社からだした『人とつき合う法』『あぷれ二十四孝』がある。モラリストの名を高らしめた好エッセイだが、その装釘も花森はしている。それだけに愉快なのだ。なにせこの『ふらんす小咄大全』を読めばどんな石部金吉も、にやけること必定、そしてそっと周囲を見まわすであろう。運悪くカミさんの目にとまれば「なによ、その変な笑い、いやらしいわねえ」と一蹴されること、これまた必至だからである(経験者のみぞ知る)。

花森語録として「質のいいユーモアの欠けている世界は真っ黒」がつたわっている。しかし小生には、どこか腑に落ちない。ユーモアとか諷刺とかいうものは、むしろ息苦しく生きにくい世界でこそ洗練され、質を高めるのではなかろうか。優れたユーモリストや諷刺家すら弾圧粛清される世界——それが治安維持法下の日本だったのかもしれない。


表紙全体

函 ウラ

【もうひとこと】全集の発行日をたしかめようと奥付をみていたら、おもしろいことに気づいた。タテ長の円の中が訳者のイニシャルで、これが検印代りになっている。本書は河盛好蔵だからY・K、第5巻『当世人気男/ベネット』訳者は吉田健一だからK・Yのごとし。しかし第11巻だけはちがう。やはり訳者丸谷才一のイニシャルS・Mではあるが、印刷した上に、さらに検印紙を貼っている。しかもそれは丸谷才一本人の印鑑ではなく、イニシャルをゴム印でつくって、それをわざわざ捺して貼っているのだ。バカバカしいことをまじめにやってみせる。その手間ひまのかけようが、さすが丸谷だ。


別巻奥付 河盛好蔵のイニシャル

第5巻奥付 吉田健一のイニシャル

第11巻奥付 丸谷才一の検印紙

2011年5月25日水曜日

新聞の片隅の言葉 荒垣秀雄

1954

書 名 新聞の片隅の言葉 天声人語から 
著 者 荒垣秀雄(1903−1989)
発行人 大橋鎭子 
発行日 昭和29年3月10日初刷
発 行 暮しの手帖社
発行所 東京都中央区銀座西8丁目5
印刷人 青山與三次郎
印 刷 青山印刷株式会社
製 本 清水茂登吉
判 型 B6判 上製カバー丸背ミゾ 平綴じ 本文418ページ
定 価 340円


本体 表紙


目次(部分、クリックで拡大) おもしろそうな見出しがならんでいる

【ひとこと】荒垣秀雄5冊目の「天声人語」自選集。昭和27年9月から同28年8月まで223篇をおさめる。花森安治は、本書のサブタイトルを、既刊では「天声人語より」であったのを「天声人語から」に変えた。花森にしてみれば、どちらでも良くはなかった。「より」よりも「から」のほうがフランクさを感じさせる。たかが天声人語されど天声人語なのであろう。「神は細部に宿る」とは、アメリカ人の建築家が言ったことばらしいが、至言である。

本書中の「関東大震災三十周年」に、こんな一節があった。
——大風呂敷といわれた後藤新平は震災後の大都市計画を立てたが政府に英断なく、わずかに若干の幹線道路と隅田川の壮麗な橋々を残しただけで小細工の復興に終った——
これを教訓として生かせるか、あるいは同じ轍を踏むか。すでに政治への信頼は地に堕ちている。政治家諸君諸嬢、しっかりしろ。

奥付のデザインに花森安治の特徴が出ている。子持ち罫(太い罫と細い罫の2本からなる)は、花森がよくつかった罫線であった。活版時代は、写植のような飾り罫はなく、必然的につかえる罫の種類はかぎられていたけれど、それでも使い方にデザイナーの個性があらわれてしまう。戦争中の出版物にも、名まえこそ記されていないが、花森の関与がうかがわれる装本がある。

奥付

本体 表紙全体

カバー 全体

【もうひとこと】本書のカバーは、暮しの手帖社初期の刊行物にいくつかあるのと同じで、天地を判型の大きさにカットしないで、全体をつつむようにしてある。本そのものはハードカバー上製だから、いわゆるフランス綴じというのではなさそうだが、発想はそれに近い。花森がいった言葉をおもいだす。

——本を買ってきたら、箱もカバーもすてるもんだよ。だいじにとっておきたい本は、しっかりした表紙をつくって、じぶんで装釘するのがほんとうなんだ——

きっとそうなんだとおもうけれど、カバーをして、オビもちゃんと巻いて、箱があったら箱にいれ、そのまま読みもせず、本棚に飾っておきたい愛書家だって世の中にはいる。ここに少なくとも一人、花森安治の装釘本をあつめている酔狂が、いるじゃあござんせんか。


【おまけ】ツイッターの情報によれば「【花森安治生誕100年】2012年2/24~4/2に島根県立美術館さんで開催する展覧会“暮しとデザイン-『暮しの手帖』 花森安治の世界(仮)”の準備が始まりました。暮しの手帖社で所蔵している資料を学芸員さんとともに調査しました。」らしいですよ。

2011年5月22日日曜日

【森の休日】第4回 縞帳 

わたしの中学生時代からの友人に村山洋介がいます。
京都の町家で集芸舎という工房をいとなむ村山は、もう着られることのなくなった古い着物や帯を、屏風や壁掛け、文具や小物などに再生するしごとをしています。さすが「着倒れ」と称される京都で、西陣織に長年たずさわってきた洋チャン。よいところに眼をつけました。昭和24年12月発行の『美しい暮しの手帖』第6号のグラビアページに「端布を貼りまぜたびょうぶ」がトップを飾っています。

週刊朝日 昭和26年7月8日号 1951

花森安治の装釘をみる上で、わたしは洋チャンからとても重要なヒントを与えられました。 織物の業界で40年もしごとをしてきた洋チャンは、職人の眼で、花森の表紙を見ていたのです。その一つが、絣の端布をならべた『週刊朝日』昭和26年7月8日号の表紙。洋チャンはそくざに「こりゃもう縞帳(しまちょう)ですな」と指摘しました。

縞帳とは、機(はた)織りの織子さんが、じぶんの織った生地の柄をのこすため、その端布をはりつけた帳面のことです。いわば織柄見本帳といえる縞帳は、織子さんの生涯の作品集のようなもので、同じものは二冊とありません。機織りが盛んだった戦前は、縞帳が全国の織物産地の織子さんの手もとに保存されていたようです。

発行日 昭和27年9月1日
縞帳はいまでは稀少で、伝統工芸の遺産として高く評価されています。そんなことを洋チャンに教えられ、はじめて知りました。

しかし、じつはわたしの不覚。まさに灯台下暗し。花森安治は縞帳をちゃんと紹介していたのです。ひだりの昭和27年9月発行の『美しい暮しの手帖』第17号がそれでした。解説構成は染織家の柳悦孝(柳宗悦の甥)。日本の縞柄の美しさを、わざわざ特漉きのアート紙をつかってグラビアで見せていました。


美しい暮しの手帖 17号「縞帳」のページより一部分


或る山村共同耕作の記錄 1944
端布をつかった装釘についてさきのブログで小生は、花森安治と佐野繁次郎のちがいにふれましたが、料理にたとえれば、花森は素材をそのまま引き立たせることにおいて日本料理、佐野は素材を融合させる妙においてフランス料理——そんなふうな違いがあるといえるでしょう。

フランス料理派からみれば、花森の表紙は、どこにも芸術的創意が感じられないかもしれません。しかし無作為にひとしいゆえに、井戸茶碗に美を発見した利休と同じこころが、感じられるのではないでしょうか。おそらくそれは、

掌の性 1946
ごはんで育った日本人の多くが共感できる心性だと、わたしはおもいます。

花森安治の表紙で端布をつかっているのは、すでに拙ブログで紹介したように、戦争中の『或る山村共同耕作の記錄』と、戦後すぐの『掌の性』。
しかしこの二冊は、どちらも実物の端布ではなく、花森が絵に描いたものでした。絣の縞柄につよい愛着があったことがわかります。

絣は、絹織物ではなく、庶民がふだん着にした木綿の生地で、民芸運動の柳宗悦は「日本の織物として最も誇りうるものの一つ」と賞賛しています。


田村泰次郎選集 第一巻 1948
花森安治が、実物の絣の端布をならべ、それを写真にとって表紙にしたのは、右の『田村泰次郎選集第一巻』がおそらく最初でしょう。

いっぽう佐野繁次郎は、みずのわ出版『佐野繁次郎装幀集成』によれば、早いのは昭和10年(1935)の改造社発行『俳句研究』の表紙、そして昭和15年(1940)、おなじく改造社版『新日本文學全集』のカバーに端布をつかってデザインしています。

本や雑誌の装釘に端布をデザインしたのは、佐野繁次郎が先でした。


花森安治が、デザインにかんして佐野繁次郎から学んだことは、きっと多かっただろうと、わたしもおもいます。才能と感性がゆたかであればあるほど、乾いた土地に水がしみこむように、佐野の技術や知識は、花森にとって成長の大きな糧になったことでしょう。

しかし、まなぶことはまねぶこと、と言われるものの、花森安治はいつも「じぶんなら如何にするか」を考えたでしょう。マネで終われば、成長はありえません。花森の向上心は、佐野とはまるで真逆のような技法をとらせたのではないでしょうか。花森の表紙には、佐野のような芸術的な創意あるいは作為が感じられません。しかしそれゆえに見る者は、小さな端布そのものに注目し、それぞれの美しさに気づかされます。


暮しの手帖 第81号 1965

ちなみに花森安治は、『暮しの手帖』第2世紀第15号で、グラビア14ページにわたって佐野繁次郎のパピエ・コレ(紙に、紙やきれをはって絵をつくる)を掲載しています。そのなかで花森は「佐野繁次郎にいわせると、キュウビズムの傑作はセザンヌじゃなくて、ピカソのパピエ・コレじゃないかと、いっている」と紹介するとともに、「芸術は、結局、その作者が個性をもっているかいないか、ということだともいえる」と、のべていました。昭和46年(1971)のことです。

【お知らせ】次回の森の休日は、花森安治『一戔五厘の旗』をとりあげます。やはり洋チャンから教えられたことで、こんどは上杉謙信に話がおよびます。おしゃれな戦国武将と花森安治の、時代をこえた<男の美意識>対決かもしれません。

下記が集芸舎のホームページです。京都におでかけのせつは、店をのぞいてみませんか。

2011年5月20日金曜日

落城 田宮虎彦

1951

書 名 落城 
著 者 田宮虎彦(1911−1988)
発行人 黑田秀俊 
発行日 昭和26年3月5日
発 行 東京文庫
発行所 東京都港区赤坂田町7−3
印刷人 小泉昭
印 刷 三協印刷株式会社
製 本 文共堂
判 型 B6判 上製 平綴じ 本文274ページ
定 価 190円


奥付
ウラ表紙

【ひとこと】田宮虎彦は東京生れ。父親が船員であった事情により神戸で育つ。花森安治とは雲中尋常高等小学校で同級生だった。田宮は秀才コースといわれた神戸一中から旧制第三高等学校(京都)をへて東京帝大文学部へ進み、在学中は同人誌『日暦』に参加した。ついで『人民文庫』同人になるが、治安維持法下では執筆活動がかなわず退会。そのときの同人との確執が田宮の作家人生に濃い影をおとすことになった。

『落城』——藍一色で描かれた扉は、どんな筆でかいたのだろうか。とても素朴な感じがするが、それがむしろこの小説の主人公の内面をあらわしているようにおもえる。花森は、絵でも字でも、いろいろなものを使ってかいた。花森安治の装釘で特記すべきことの一つである。


表紙全体

【もうひとこと】城郭の柱であろうか。その太い木組が、この小説の重厚さをあらわしているようだ。読後あらためて見ると、「人柱」ということばを想いおこさせる。

この『落城』は、歴史小説の体裁をとっているが、危機下において、意地や体面にとらわれる人間のおろかさと、状況に翻弄されてしまう人々の苦悩と絶望が描かれている。福島第1原発が、なぜかいま落城寸前の黒菅城にみえてくる。勝てない相手に勝てるかのような期待を、自他に抱かせようとしているのでなければよいが。

2011年5月18日水曜日

安い部屋 源氏鶏太

1953


書 名 安い部屋 
著 者 源氏鶏太(1912−1985)
発行人 大野泰子 
発行日 昭和28年10月10日
発 行 東方社
発行所 東京都文京区大塚坂下町57
印刷人 磯貝兌雄
判 型 B6判 上製カバー丸背ミゾ 平綴じ 本文358ページ
定 価 280円(地方定価285円)


本体 表紙

【ひとこと】源氏鶏太は1951年、『英語屋さん』で直木賞を受賞。その作品は、サラリーマン社会に題材をとったユーモア小説が多いが、本書には、みずからの従軍体験にもとづいた『水兵さん』がおさめられている。源氏鶏太は1944年応召、海軍上等兵として舞鶴防衛隊に配置され、軍隊では日常茶飯事だっだとはいえ、彼もまた十歳も年少の兵長たちの理不尽なイジメにあう。かれらが浴びせる罵声は、花森安治が『一戔五厘の旗』でこめた怨念を、おもい起こさずにはいられない。

——「お前たちの一人や二人を殺したつて、何ともないんだ。三銭の葉書一枚で、いくらでもおかはりがくるんだ。」——

花森の『一銭五厘の旗』にも、葉書一枚で兵を徴集できるというくだりがある。戦後派が多くなったいま、それが召集令状の郵送料であったかのような誤解を招きそうだが、いわゆる赤紙は、役場の吏員が本人に直接とどけることになっていた。ここでいう葉書とは、前線から軍司令部への、欠員補充要請なのだろう。源氏や花森の文中、上官があびせた葉書のねだんは、兵隊の「いのち」の軽さ安さを譬えたものにほかならない。ちなみに花森は「銭はカネではない」と、あえて金偏を省略した字をつかっている(葉書のねだんにかぎって言えば、昭和12年には3銭になっていた。もう少し調べる必要がありそうだ)。

ところで版元の東方社だが、戦時中、対外宣伝誌『FRONT』を発行した陸軍参謀本部直属のあの東方社ではない。関係があるのだろうか。

奥付


表紙全体
カバー全体

【もうひとこと】カバーのタイトルと著者名は小さいが、扉の描き文字は、そのぶん意表をつくようにダイナミックだ。黒のふとい枠線とあざやかな色の配置は、パウル・クレーを感じさせるが、クレヨンの地色をペン先で引っかいて描いた建物があって、あたかも夢の町の地図のようだ——緑地がある。池がある。赤や茶色はどんな街だろうか。想像するとたのしい。仮すまいの不自由をしいられている大震災罹災地の人々には、復興への希望をもってほしい。

2011年5月16日月曜日

何も知っちゃいない話 乾信一郎

1953

書 名 何も知っちゃいない話 世界奇話夜話集 
著 者 乾信一郎(1906−2000)
発行人 河端昇 
発行日 昭和28年7月15日
発 行 白燈社
発行所 東京都千代田区神田神保町2−7
印刷人 松浦九一
判 型 B6判 上製カバー丸背ミゾ 平綴じ 本文244ページ
定 価 220円


本体表紙
本文 見出しカット
奥付

【ひとこと】乾信一郎、本名上塚貞夫はシアトル生れ。昭和13年に『新青年』第5代編集長をつとめるも経営陣と意見が合わず退社した。日中戦争がはじまり、同誌も編集方針をかえ、探偵小説のような娯楽読物をへらし、戦時色のつよい読物を多く掲載するようになっていた。

乾信一郎は、はじめ乾信四郎のペンネームをつかおうとしたらしい。だが音読すると「かんしんしろう=感心しろ」になる。さすが気がひけて信一郎にしたという。真偽のほどはさだかではないが、こういうところが乾の人柄であり持ち味であって、だからこそ経営陣と衝突したのであろう。穏和なユーモリストほど芯は強い。


カバー全体
表紙全体
【もうひとこと】花森安治が装釘した本は、その著者と花森との間のどこかに接点があるばあいが多い。本書は23篇の滑稽譚からなるが、花森はその一つひとつの見出しにカットを描いた。ジャズでいえば気分よくスウィングしているのだ。花森もジョークがすきであった。きっと意気投合するところがあったのだろう。

世の中からジョークやユーモアが少なくなったような気がしませんか。こんなときだからこそ、テレビやラジオは、往年の寄席の名人芸を、くりかえし放送してほしいものだ。日本の上質の笑いがある。