2011年8月31日水曜日

服飾の讀本 花森安治

1950


書 名 服飾の讀本   
著 者 花森安治(1911−1978) 
発行人 大橋鎭子
発行日 昭和25年7月1日
発 行 暮しの手帖社
発行所 東京都中央区銀座西8−5
印刷人 青山與三次郎(本文)・鈴木信司(表紙 有恒社)
印 刷 青山印刷株式会社 
製 本 清水茂登吉
判 型 A5版 上製 無線綴じ 本文224ページ
定 価 280円



目次

本文扉

奥付


【ひとこと】花森安治、これが最初の自著自装である。みずから絵筆でがいた配色見本のような表紙が美しい。これを現在の高度な印刷技術で刷れば、どんなにすてきだろう。書店の平台にならんだとき、ひときわ目立つにちがいない。店頭で客の目をひき、手にとらせることが、まずは装釘者の力量。いや、覚悟だとおもう。山口瞳がおぼえていた花森のことばがある。

「きみ、本屋へお客さんが来るだろう。そのひとが、ふところへ手を突っこんで、ガマグチを取りだして、パチンとフタをあけてだね、銭をだして物を買うっていうのは、大変なことなんだよ」 (「花森安治さん(二)『人生仮免許』新潮社1973所収)。

収載された文章は、三分の二が『美しい暮しの手帖』創刊号から八号まで、あとの三分の一が他誌に寄稿したものと新しく書き加えたもの。しかし発表分についても、大幅に修正加筆したと書いている。

店先に衣料品があふれておらず、じぶんで衣服を作ることが多かった時代の著作で、おもに洋装についての基礎知識が書かれている。それはいいかえればオシャレの基本でもあって、いまもけっして古びない。




【もうひとこと】すでに紹介したとおり、鐵村大二の生活社『婦人の生活』シリーズに安並半太郎の筆名で「きもの讀本」を書いたのが花森安治であった。本書『服飾の讀本』の「服飾」を平かなの「きも」に置き換えれば、『きもの讀本』になる。たんなる偶然であろうか。

花森安治のクセといえば語弊があるかもしれぬが、暮しの手帖社からだした『からだの読本』にしても、読本という言葉をつかっている。好んでつかった、というだけではないような気が、小生はしている。



2011年8月29日月曜日

山莊記 野上彌生子

1953


書 名 山莊記   
著 者 野上彌生子(1885−1985) 
発行人 大橋鎭子
発行日 昭和28年12月1日
発 行 暮しの手帖社
発行所 東京都中央区銀座西8−5
印刷人 青山與三次郎
印 刷 青山印刷株式会社 
製 本 清水茂登吉
判 型 B6版 上製角背ミゾ カバー 無線綴じ 本文234ページ
定 価 280円


印刷ではなく木綿の絣を貼った本体表紙 


目次ウラの記名

奥付

【ひとこと】書名の『山莊記』は、昭和19年秋から戦争が終わった20年秋まで、野上彌生子が北軽井沢に移りすんだ一年間の日記にちなむ。

——戦争への絶望感をもちながらどうすることも出来ない悲哀と憤りを、私はあのミダス王の髪結いの司が、王の驢馬に似た耳の秘密をひそかに土の穴に掘つて囁いたと同じ気持ちで、毎日の日記にそそいだ。
(原文正字正かな)

戦時中、軽井沢などの避暑地に疎開して戦災をまぬかれた一部の特権階級に対して、 戦後それを非難する声が少なからずあったようだ。花森安治にも非難の言辞がある。あとがきで野上は、「たかみの見物をした」と思われることへの後ろめたさを、この日記によって「贖えれば有り難い」と書いている。精神(言論)の自由を、野上は野上のやり方で、まもったのである。


表紙全体(背文字、ウラ表紙とも型押し)

カバー全体

【もうひとこと】目次ウラに「装本 花森安治」にならんで、「久留米絣 山下實」と記されている。本体の表紙と背に、木綿の久留米絣の端布が貼りつけてあり、山下はその絣の織り職人なのであろう。革張りの表紙もあるように、絣のような生地をもちいて表紙をつくる例は、小山書店がだした小泉八雲の特装本などにも見られ、花森のオリジナルではない。

野上彌生子に絣のきものを着せてあげたようで、 それが花森のやさしさにおもえる。


1945 生活社刊日本叢書 『山莊記』『続山莊記』


【もうひとこと】ごらんのように、野上彌生子『山莊記』を最初に版行したのは、生活社の鐵村大二であった。河内紀さんも関心をよせておられたが、生活社の執筆陣と『暮しの手帖』の執筆陣はかさなるところが多く、見ようによっては鐵村なき後、花森安治がひき継いだようにも見える。けれども、つながりが感じられるだけで、じっさいのところは、わからない。

2011年8月26日金曜日

極北の氷の下の町 中谷宇吉郎

1966


書 名 極北の氷の下の町   
著 者 中谷宇吉郎(1900−1962) 
序 文 茅誠司(1898−1988) 
発行人 大橋鎭子
発行日 昭和41年6月15日
発 行 暮しの手帖社
発行所 東京都中央区銀座西8−5
印 刷 青山印刷株式会社 
判 型 B6版変型 並製 無線綴じ 写真共本文224ページ
定 価 320円


表紙ウラに始まるリード


目次

奥付


【ひとこと】中谷宇吉郎は、前立腺ガンが骨髄にまで転移し、六十一歳の若さでなくなった。その早世を悼んで茅誠司が序文を寄せた。それを花森安治は、表紙ウラから本文最初のページに大きめのゴシックで組んで、リードとしている。この本は、低温科学の研究にいのちをかけた科学者、中谷宇吉郎へのオマージュである。


表紙全体

【もうひとこと】ガンの転移がわかり、もはや治療の術がないとわかってから、中谷は『暮しの手帖』へのエッセイ連載をひきうけた。十回の約束が五回でおわった。目次にある「まい日の科学」の五編がそれである。初回の「なにかをするまえに、ちょっと考えてみること」から次の一節をひく。

——今日の科学は、あまりにも分化し、かつ商業化している。その外観だけを見ると、科学は、一般の人々や、その主婦たちには、とうてい手のとどかない、はるか彼方のもののようにみえる。しかし、科学の本来の姿は、そういうものではない。(初出1961年 『暮しの手帖』第59号)

中谷は「生活に役立つものが、ほんとうの科学の姿だ」と、くりかえし説いた。しかし、福島第一原発の事故とその収拾にあたるさまをみていると、この半世紀、人類のために科学技術は発展したのか、疑わざるを得ない。カネと権力の前に科学が屈服しているかに見えてしまう。子どもの健康と、未来のいのちを守るために、科学者だからこそできることが、いっぱいあるとおもう。傍観者になってほしくない。

2011年8月24日水曜日

浦島太郎 中谷宇吉郎

1951


書 名 浦島太郎 
著 者 中谷宇吉郎(1900−1962)
影 絵 藤城清治(1924−)
写 真 松本政利(1909−1975)
発行人 大橋鎭子 
発行日 昭和26年12月10日
発 行 暮しの手帖社
発行所 東京都中央区銀座西8丁目5
印 刷 青山印刷株式会社(本文)・有恒社(表紙)
製 版 廣橋美術製版所 
製 本 佐藤賢一郎
判 型 B5判 上製角背ミゾ 平綴じ 本文48ページ
定 価 160円



奥付


【ひとこと】中谷宇吉郎は寺田寅彦に師事した物理学者。雪博士として知られ、『暮しの手帖』には昭和25年4月発行の第7号から、たびたび寄稿した。

本書は、中谷がわが子のために語って聞かせたという『浦島太郎』である。われわれが知るオリジナルとちがうのは、まずはその語り口。中谷の巧みな話術が活かされている。内容は大筋でおなじだが、ディテールが物理学者らしくておもしろい。

藤城清治は、その才能を花森安治に見いだされ開花させた影絵作家。いまなお元気で創作に励んでいる。慶賀にたえない。ちなみに藤城の『影絵はひとりぼっち』(三水社1986年刊) によれば、『暮しの手帖』の表紙も印刷していた有恒社は、刷り上がりが悪いとすべて廃棄し、新たに刷りなおしたという。

<訂正2011/11/29 藤城清治著『影絵はひとりぼっち』に称揚された印刷会社は恒陽社。かんちがいでした。訂正しておわびします。ただし有恒社もそれに劣らず職人気質の印刷会社であったことは、まちがいありません。>

松本政利は暮しの手帖社に専属し、花森安治の期待にこたえる写真をとりつづけたフォトグラファー。高度の撮影技術をもちながらも芸術家を気どることなく、松ちゃんとよばれ慕われていた。花森とは生活社『婦人の生活』シリーズ以来のコンビであった。

本書には、装釘者として花森安治の名は記されていない。


生活社がだした日本叢書 


【もうひとこと】中谷宇吉郎は、生活社の鐵村大二と親交が深かった。昭和22年1月、生活社から出た中谷の『春艸雑記』に、中谷はつぎのような「附記」をよせた。長いので抜粋する(原文正字正かな)

——本書は生活社の故鐵村大二君の熱心な希望によって同社から出すことにしたものである。昨年の早春、東京の大半が戦災によって焼けていた頃、鐵村君は(中略)「防空壕の中で読む本」を世に送りたい、それには粗末な紙の小型本でよいから内容の出来るだけ高いものが欲しいということを言っていた。それで始めたのが『日本叢書』であった。

——鐵村君のやり方は、私には非常に興味があった。その頃の『日本叢書』は新聞全紙裏表に刷って十六枚に(中略)鐵村君初め(ママ)全社員が、竹篦でそれをどんどん折って、折れ上がった分から窓の外の椽台に積み上げていた。そこへ戦災者らしい人だの学生だのがつめかけて来て、次ぎ次ぎと買っていった。

——此の『日本叢書』のやり方を、私は褒めた。そうしたら鐵村君は、実はこういうやり方と並行に、ちゃんとした綺麗な本を作ることを考えていると言った。そして私の随筆集を求めた。「もうすぐそういう時期が来ます」ということであった。此の言葉の意味は今でも不明である。鐵村君はこの七月にむつかしい病名で亡くなってしまった。終戦を予想し、其の後の出版界の荒んだ混乱状態を考え、 漸く落ち着いて楽しめるような綺麗な本が欲しいようになった現在の状態まで見透したわけではないであろう。しかしひょっとしたら、それくらいのことは考えていたのかもしれない。

鐵村大二が昭和21年7月になくなったことは、この中谷の文章でわかる。鐵村が病床についていたころ、花森安治は大橋鎭子とともに衣裳研究所をつくり、6月『スタイルブック』夏号を刊行している。

2011年8月22日月曜日

貝のうた 沢村貞子

1978


書 名 貝のうた   
著 者 沢村貞子(1908−1996) 
発行人 大橋鎭子
発行日 昭和53年4月20日
発 行 暮しの手帖社
発行所 東京都港区六本木3−3−1興和ビル
印刷人 北島織衛
印 刷 大日本印刷株式会社
判 型 B6版 上製丸背ミゾ平綴じ カバー 本文224ページ
定 価 850円


本体 表紙


目次 扉

目次

本文 組体裁

奥付


【ひとこと】暮しの手帖社からでた沢村貞子の二冊め。じつは昭和44年に講談社が版行し、絶版となっていたものを、花森安治の装釘で暮しの手帖社が再版した。花森が沢村に関心をもったのは、講談社版を読んだのがきっかけのようだと、あとがきに書いている。

本書の装釘には、花森安治の描き文字もさし絵も、まったく使われていない。文字はすべて明朝体であり、その大きさと組み方に、花森の装釘の美学がある。淡い水色を基本色につかっているせいか、一見弱々しく感じるが、沢村のけれんみのない淡々とした語り口には、かえって清々しく凛としているし、説明的なさし絵ならばないほうがいい。

なお、本書ができあがったのは、花森安治がなくなったあとであった。


本体 表紙全体

カバー全体

【もうひとこと】本書は沢村の自伝的エッセイである。一冊めの『私の浅草』とともに脚色され、NHK朝の連続ドラマ『おていちゃん』として放映された。昭和七年、治安維持法下の日本で、マルキストと結婚しただけの理由で逮捕され、一年以上にわたって留置場と刑務所に拘束された実体験がつづられている。当時の思想取締りがいかに理不尽であったか、現在の「自由社会の権利意識」の尺度をもって測っては、想像しにくい。

暮しの手帖研究室に、沢村はたまに顔を出した。夫君の大橋恭彦が「テレビ註文帳」のページをまかされていたこともあって、花森のごきげんうかがいのようにも見えたが、やわらかな物腰のおくに芯の強さを感じさせ、小生など弱輩は容易に近づけなかった。

暮しの手帖社からの第一作『私の浅草』はミリオンセラーとなり、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。沢村の文章力には天性のものがある。人生の修羅場をくぐりぬけて得た者の、したたかさとやさしさがある。八月十六日が祥月命日であった。

2011年8月21日日曜日

【森の休日】第8回 連続と非連続 ②

ところで詩人の杉山平一さんは、旧制松江高校時代、花森安治の一年後輩にあたり、親しかったことが知られています。花森が戦地の満洲で肋膜をわずらって日本に送還され、和歌山の陸軍病院で療養したとき、杉山さんの見舞いにこたえ、花森がかえした二枚つづりのハガキがのこっており、それが戦時中の数少ない資料としてたびたび取り上げられてきました。小生が注目したのは、二枚めのハガキのつぎのくだりです。

——からだはすっかりよくなりました。一月には帰れると思ふ。ひょっとしたら、僕の仕事を手傳つてもらふかも知れない。新しい仕事だが、やり甲斐はありますよ。

時期的にみて、これは昭和14年暮のことと考えられます。けれどこのハガキにある「僕の仕事」が何であったのか、このあと花森から杉山さんへの連絡がなく、わからずじまいになっていました。しかしながら、 生活社の『婦人の生活』シリーズの発刊時期をかんがえ合せると、花森のいう「新しい仕事」とは、大政翼賛会での仕事ではなく、この出版事業のことではなかったか、と小生にはおもえます。


1941


書 名 みだしなみとくほん 婦人の生活 第二冊
装 釘 佐野繁次郎(1900−1987)
編輯人 今田謹吾(1897−1972)
発行人 今田謹吾
発行日 昭和16年4月10日
発 行 株式会社生活社
発行所 東京都神田区鍛冶町3−6鍋町ビル
印刷人 大橋松雄
印刷所 共同印刷株式会社
判 型 B5判 並製カバー 本文グラビア共200ページ
定 価 1円30銭


編集方法や体裁など一冊めと全く変りがないのにもかかわらず、編輯兼発行人を鐵村大二から今田謹吾に替えているところに、おかしな作為が見えます。もとより安並半太郎という筆名をもちい、鐵村や今田を編輯兼発行人にしたてたのは、言論が蹂躙されていた「出版事情」をおもんぱかってのことではなかったでしょうか。

今田謹吾という人物についても、よくわかりません。児童文学者、劇作家、画家などの顔をもつほか、昭和9年厚生閣刊行の『日本現代文章講座・方法篇』に「パンフレットの編輯と技術」と題する文章を書いています。これがなかなかの卓見で、たとえば「すぐれた編輯者はなんでもやはらかにつくり、下手な編輯者はどんなに面白いものでも固苦しいものにしてしまふ」と断じるところなど、表現に一家言もつ人物であったことがうかがえます。

前回紹介した河内紀さんの「生活社と鉄村さん」によれば、鐵村と今田はたがいに親炙する間柄であったようです。けれども花森との関係は、わかりません。


奥付

目次 きもの読本部分

「序」の末尾部分


あくまでも小生の憶測ですが、この『婦人の生活』シリーズ刊行のうらには、なみなみならぬ深慮と遠謀があったようにおもえます。かいま見えるのは、専横化する軍部主導の政治への抵抗であり、その流れをかえようとする意志です。ただし、その抵抗姿勢は硬直しておらず、柳のようにしなやかで、おとなの深慮を感じます。

しかし「序」の末尾の三行を読んでみてください。男の頭のなかを変えるよりも、衣食住の暮し方を変えたほうが、人間の考えは変る。そのためには女のすなおな直観力が必要と言っているのではないでしょうか。そしてこんどもまた「では又(C)」で締めくり、花森は招かれて大政翼賛会宣伝部の一員となります。——ここに花森安治の遠謀を感じます。

そして言えるのは、花森のこの考え方は、学生時代も戦時中も、そして戦後も一貫しており、揺らぎもしなければ変節もしていないことです。その証左として、戦後の花森の『風俗時評』があげたいとおもいます。


1953


書 名 風俗時評 家庭文庫
著 者 花森安治(1911−1978)
扉挿画 花森安治
発行人 宮川三郎
発行日 昭和28年4月20日
発 行 東洋経済新報社
発行所 東京都中央区日本橋本石町3−2
印刷所 大日本印刷株式会社
判 型 タテ138×ヨコ138 上製丸背ミゾ 本文130ページ
定 価 130円


扉 画・花森安治


本書は昭和26年暮、ラジオ東京(現TBSラジオ)の開局と同時に始まった花森安治のトーク番組『風俗時評』を速記にとり、まとめたもの。あとがきによれば60数回の放送分のうち後半の四カ月分とのことですが、花森のモノの見かた考え方がよくわかる一冊となっています。『暮しの手帖』に書いた文章をあわせ読めばわかりますが、同じテーマを、その趣旨を変えずに、いろいろな具体的事実をあげて説くのは、花森安治の得意とする方法でした。


目次

奥付

今回、とくに注目していただきたいのは目次です。『みだしなみとくほん』に河合章子の名で載せている「洋服の手記」をごらんください。「黒ばやり」で始まっています。『風俗時評』も「黒の流行」で始まります。どちらも黒い衣服の流行批判になっていて、奇しくも同じ趣旨内容なのです。

花森安治は『暮しの手帖』でもやっていますが、文章やカットを何人かの筆名をつかってのせています。池島信平が「才能がありすぎる」と評したとおり、花森は何でもできた人ですから、他人にたのんで書いてもらうよりも、じぶんでやったほうが早く、思いのままになったのでしょう。とはいえ、すべて花森安治の名まえでやったのでは、人材のいない舞台裏が丸みえですし、豊かとはいえぬ台所事情までもうかがえます。もっとも、一人で両性のかけもちでは文体は当然おなじにしても、男名の文章が女っぽかったり、逆に女名の文章が男っぽかったりで、さすがの花森も混乱を避けられなかったようです。

卒業論文に『社会学的美学から見た衣粧』をかいた花森です。きものにしろ洋服にしろ、表面は時流にあわせているように見せかけながら、合理的な暮し方をもとめようとする花森安治の思想は、戦時中の『みだしなみとくほん』に見いだせ、戦後の『風俗時評』にも見いだせます。
(この項、次回もつづきます)


【つけたり】日本最初のFM放送局は、昭和35年東海大学に開局したFM東海実用化試験局である。昭和37年には名物番組『朝のコンサート』がはじまり、音質のよさをいかしたクラシック音楽を流した。その最初のキャスターが花森安治であったことを知る人はすくない。花森は自宅を焼失してからレコード蒐集をやめてしまったけれど、LPレコード3000枚を所有する「マニア」であった。クラシックのみならず、ジャズやダンス音楽、シャンソンまで幅広く集めていたという。

*8月22日より通常の更新(月水金の週3回)にもどります。引き続き、よろしくお願いします。

2011年8月14日日曜日

【森の休日】第7回 連続と非連続 ①

お盆——。人と人との縁はふしぎです。『彷書月刊』編集長であった故田村治芳さんと小生の出合いも、ほんの一瞬でしたが、わすれえぬ縁となっています。それは生活社の鐵村大二がまねきよせ、花森安治がむすんでくれたとしか思えないのです。


彷書月刊 2002/3  2010/10


もう何年かまえのこと。生活社と鐵村大二のことをしらべるうち、『彷書月刊』の特集記事になっていることがわかり、さっそくとりよせました。2002年3月号<特集・とある出版社の足あと>がそれで、「鐵村大二と生活社」について、河内紀さんが書いていました。

読後、小生は田村さんに、生活社がだした『婦人の生活』に安並半太郎の名まえで「きもの讀本」を書いているのは花森安治であり、この本全体の編集スタイルやレイアウトなどから推察できるのは、戦後これを花森がマネたのではなく、当時、花森じしんがこの本づくりに主導的にかかわっており、そしてこのとき花森は、『婦人画報』の東京社で出版局長の経歴をもつ鐵村から、女性を読者対象とする雑誌作りのノウハウを学んだのではないか、そのように想像しているとメールで伝えました。

田村さんから、なるほどそう考えたほうが自然な流れにおもえる、と返事がありました。たったそれだけのやりとりが、七年後の休刊号で、ふたたび河上さんに『尋ね人の時間・特別編』で「生活社と鉄村さん」を書かせたのではないか。ひっきょうそれは、戦後まもなく早世した鐵村と、入れかわるように登場した花森の、戦時中のふたりの間に存在したであろう濃密な時間への関心からではなかったか。そうおもえます。


1940


書 名 婦人の生活 第一冊
装 釘 佐野繁次郎(1900−1987)
編輯人 鐵村大二(1907−1946)
発行人 鐵村大二
発行日 昭和15年12月5日
発 行 株式会社生活社
発行所 東京都神田区鍛冶町3−6鍋町ビル
印刷人 大橋松雄
印刷所 共同印刷株式会社
判 型 B5判 並製カバー 本文グラビア共200ページ
定 価 1円30銭




装釘者として、佐野繁次郎の名が記されていることが、長いあいだの混乱の元のようです。扉や見出しにも佐野の書き文字がつかわれており、いかにも佐野がレイアウト(あるいはアートディレクト)したように見えるからでしょう。しかし全体を通して見ると、林哲夫さんも指摘されているように、文字組ひとつ見ても花森安治のデザインセンスであると言えそうです。あいまいな言い方にならざるのをえないのは、花森安治の名まえが、どこにも記してないから——。


目次のうち安並半太郎「きもの読本」のページ


安並半太郎こと花森が書いたページが、全体のほぼ四分の一をしめることも驚きながら、「きもの読本」と題したエッセイを、業界で無名の者が堂々と書いていることに、もっと驚かされたのではないでしょうか。大げさにいえば、イザヤ・ペンダサンくらいの衝撃を、業界人に与えたようにおもえます。わからないのは、なぜ安並半太郎の筆名をつかったか、その理由です。この第一冊をつくったとき、花森安治は戦地でわずらった病気がなおって和歌山から東京へ戻ったころで、大政翼賛会にはいるのは、翌年の春といわれています。


奥付


この本は、全十冊シリーズを企画していました。だから第一冊なのですが、奇妙なことに第二冊の編輯兼発行人は今田謹吾にかわり、第三と四は、編輯人を今田、発行人を鐵村としています。しかし、名まえがどうであれ、企画の趣旨、根幹をしめす文章は、花森安治が書いていたとしかおもえません。憶測といわれればそうですが、たとえば本書の「序」や「あと書」から、一節ずつひいてみましょう(原文正字正かな)。

——ほんとに必要なもの——「必要は真実の美だ」といっていいと思う。又「必要が一番の自然だ」といってもいいと思う。では又(C)。

——実用記事、それから真実な経験から生れた、尊い皆さまの原稿は、おそらく、読み手になる者の生活に、そのまま生きて這入って行くにきまっています。

いかがですか。
「必要なものは美しい」は、花森安治の美意識の基本。つぎの実用記事以下の文を、やさしく詩的に言いかえれば、いまなお『暮しの手帖』の表紙ウラ面をかざることば、そのものではないでしょうか。

*「美しいものを」参照、初出『暮しの手帖』95号(1968)、花森安治『一戔五厘の旗』(1971)所収。
*『暮しの手帖』表紙ウラ面のことば。

これは あなたの手帖です
いろいろのことが ここには書きつけてある
この中の どれか一つ二つは
すぐ今日 あなたの暮しに役立ち
せめて どれか もう一つ二つは
すぐには役に立たないように見えても
やがて こころの底ふかく沈んで
いつか あなたの暮し方を変えてしまう
そんなふうな
これは あなたの暮しの手帖です


もっとうがったことをいえば、「では又(C)」という締めくくり方です。古い『暮しの手帖』の「編集者の手帖」も、昭和24年第5号から「では又(S)」で必ず終っています。Sが大橋鎭子さんのイニシャルをあらわしていたことは古い読者ならごぞんじのとおりですが、では本書のCは、いったい誰をさしているのでしょう。鐵村も佐野もCではありません。花森安治の「は」と、小生は見なしています。ヒントはベートーヴェンの交響曲第5番。中野重治『日本文学の諸問題』の表紙もごらんください。花森には、みずからを愉しむところがありました。


1946

*Beethoven  Symphony No.5 in C minor ベートーヴェン 交響曲第5番ハ短調
*表紙の右下部に注目すれば、CはH(花森安治のサイン)「花森安治もまた細部に宿る」といえば、冗談がすぎると叱られるかしら。

【おしらせ】この項は次回もつづけます。

ブログを一週間やすみます。小さな菜園ながら秋冬野菜の種苗をまくために、これから一ヶ月かけて畑作り。老骨にムチ打って、と自慢したいところなれど、当地もまた年寄りはみな達者で、小生なんぞはハナタレ小僧、弱音を吐くわけにはまいりません。

2011年8月12日金曜日

放列 中山富久

1943


書 名 放列 バタアン砲兵戦記   
著 者 中山富久(1913−?)
発行人 目黒四郎
発行日 昭和18年4月25日
発 行 育英書院
発行所 東京都神田区駿河台3−1
印刷人 石村勲
印刷所 大日本印刷株式会社
判 型 B6判 上製平綴じ 口絵他共本文234ページ
定 価 1円80銭




中山の献辞と目次最終ページ

奥付

ウラ表紙


【ひとこと】放列は、砲列とも書き、戦場で大砲が列をなして敵陣にむかう攻撃態勢をいう。中山富久は陸軍中尉、砲兵隊の士官であった。花森安治の表紙は、どう見ても砲弾ではなく銃弾。懐中時計は、中山の身分を象徴する所持品であろう。絵も構図も花森らしいデザインだ。

中山のことがよくわからない。慶應義塾出身で横浜に住み、戦後の作品には『幻想拾遺』『月も岩も濃い青』などの詩集もある。昭和19年、大政翼賛会文化厚生部に勤労芸能研究会が組織されているが、その末席の係員として、宣伝部の花森安治とともに、中山富久、岩堀喜之助(平凡出版創設者)、中谷毅の四人の名まえが残っている。


口絵 向井潤吉

題字 比島方面最高指揮官陸軍中将 本間雅晴 

序歌 齋藤茂吉


【もうひとこと】ふしぎな本である。上掲のごとく向井潤吉の口絵、齋藤茂吉の序歌、陸軍中将本間雅晴の題字(色紙)のほか、陸軍中佐高橋克己の序文まで附けている。いかにも大政翼賛会の宣伝部から応召した職員による敢闘記で、鳴り物入りの国策出版物に見える。しかし、なかみは中山富久の紀行ふう随筆と和歌。悪名高き「バターン死の行進」についての記述もなく、だれかの批評のように「戦時資料としての価値はない」。とはいえ、ところどころに愛国常套句をちりばめてはいるものの、正直な心象叙述や感傷的な歌は、読む者にじわじわと厭戦気分を植えつける。つまりこの時期、戦意昂揚にはなりえそうもない本を、よくも上梓できたものだと感心するのである。

本文中、本領信治郎、八並璉一、入澤文明、川本信正ら、翼賛会宣伝部における中山の先輩同僚の名まえを見つけることができる。あとがきには、「また出版に関する一切が、畏友花森氏の美しい戦友道義により為されたことに就て敬礼する」と記している(原文正字)。——みんなで渡れば怖くない、ということかしら。

当時、日本には出版法があった。内務省の事前検閲により、内容がふつごうと見なされれば発禁となり、関係者は処罰された。