2011年8月10日水曜日

歌舞伎十八番 戸板康二

1955


書 名 歌舞伎十八番   
著 者 戸板康二(1915−1993)
発行人 栗本和夫
発行日 昭和30年7月1日
発 行 中央公論社
発行所 東京都千代田区丸ノ内2−2丸ビル592区
印刷人 曾根盛事
判 型 新書判 並製平綴じ カバー 本文244ページ
定 価 140円


カバー裏

奥付

カバー全体


【ひとこと】これも中央公論社の「軽装版」シリーズの一冊。本体装釘は恩地孝四郎。花森安治のカバーは、楽屋をおもわせる道具を描いている。いつもながらその構図は美しい。

戸板康二の文章の冒頭にこうある(原文正字)。
——「歌舞伎十八番」という言葉は、歌舞伎の歴史の上からいえば、はるかに後期に生れたものである。それは市川團十郎を代々名のつて来た家に古くから伝わる、いわゆる「家の藝」であった。——

すなわち十八番は、市川團十郎の得意とする十八の演目で、それを「おはこ」と称した。 花森は、KABUKI 18 BANとかいたが、さて外国人はいかに読むやら。


後記


【もうひとこと】戸板康二の経歴をしらべると、「昭和14年、明治製菓入社。宣伝部に配属されPR 誌『スヰート』の編集に携わる。昭和18年『スヰート』の休刊を機に明治製菓を退社、恩師折口信夫の紹介で一年間女学校の国語教師となったあと、昭和19年に久保田万太郎が社長をつとめる日本演劇社に入社、『日本演劇』『演劇界』の編集に携わる」と紹介するものが多い。昭和19年当時、戸板が報道技術研究会の一員でもあったことを記すものは、ほとんどない。

報道技術研究会とは、大政翼賛会宣伝部の傘下にあり、花森安治をとおして広告宣伝物の制作実務にあたっていたプロ集団。ふたりは戦時中も接点があったのである。しかし、その経歴が記されていないからといって、ふたりが「臆病」だったから過去を「封印」したとは、小生には考えにくい。たとえば吉本隆明は「日本人の優性遺伝」と言ったけれど、表層を見たかぎりは日本と日本人の戦後は支離滅裂でしかなく、戦争で戦った人々のおもいを汲み上げることは、できないのではないか。臆病ゆえの封印であれば、それは負け犬の仕儀であろう。けれど人生って、そんなに単純で底の浅いものかしら。