2011年8月21日日曜日

【森の休日】第8回 連続と非連続 ②

ところで詩人の杉山平一さんは、旧制松江高校時代、花森安治の一年後輩にあたり、親しかったことが知られています。花森が戦地の満洲で肋膜をわずらって日本に送還され、和歌山の陸軍病院で療養したとき、杉山さんの見舞いにこたえ、花森がかえした二枚つづりのハガキがのこっており、それが戦時中の数少ない資料としてたびたび取り上げられてきました。小生が注目したのは、二枚めのハガキのつぎのくだりです。

——からだはすっかりよくなりました。一月には帰れると思ふ。ひょっとしたら、僕の仕事を手傳つてもらふかも知れない。新しい仕事だが、やり甲斐はありますよ。

時期的にみて、これは昭和14年暮のことと考えられます。けれどこのハガキにある「僕の仕事」が何であったのか、このあと花森から杉山さんへの連絡がなく、わからずじまいになっていました。しかしながら、 生活社の『婦人の生活』シリーズの発刊時期をかんがえ合せると、花森のいう「新しい仕事」とは、大政翼賛会での仕事ではなく、この出版事業のことではなかったか、と小生にはおもえます。


1941


書 名 みだしなみとくほん 婦人の生活 第二冊
装 釘 佐野繁次郎(1900−1987)
編輯人 今田謹吾(1897−1972)
発行人 今田謹吾
発行日 昭和16年4月10日
発 行 株式会社生活社
発行所 東京都神田区鍛冶町3−6鍋町ビル
印刷人 大橋松雄
印刷所 共同印刷株式会社
判 型 B5判 並製カバー 本文グラビア共200ページ
定 価 1円30銭


編集方法や体裁など一冊めと全く変りがないのにもかかわらず、編輯兼発行人を鐵村大二から今田謹吾に替えているところに、おかしな作為が見えます。もとより安並半太郎という筆名をもちい、鐵村や今田を編輯兼発行人にしたてたのは、言論が蹂躙されていた「出版事情」をおもんぱかってのことではなかったでしょうか。

今田謹吾という人物についても、よくわかりません。児童文学者、劇作家、画家などの顔をもつほか、昭和9年厚生閣刊行の『日本現代文章講座・方法篇』に「パンフレットの編輯と技術」と題する文章を書いています。これがなかなかの卓見で、たとえば「すぐれた編輯者はなんでもやはらかにつくり、下手な編輯者はどんなに面白いものでも固苦しいものにしてしまふ」と断じるところなど、表現に一家言もつ人物であったことがうかがえます。

前回紹介した河内紀さんの「生活社と鉄村さん」によれば、鐵村と今田はたがいに親炙する間柄であったようです。けれども花森との関係は、わかりません。


奥付

目次 きもの読本部分

「序」の末尾部分


あくまでも小生の憶測ですが、この『婦人の生活』シリーズ刊行のうらには、なみなみならぬ深慮と遠謀があったようにおもえます。かいま見えるのは、専横化する軍部主導の政治への抵抗であり、その流れをかえようとする意志です。ただし、その抵抗姿勢は硬直しておらず、柳のようにしなやかで、おとなの深慮を感じます。

しかし「序」の末尾の三行を読んでみてください。男の頭のなかを変えるよりも、衣食住の暮し方を変えたほうが、人間の考えは変る。そのためには女のすなおな直観力が必要と言っているのではないでしょうか。そしてこんどもまた「では又(C)」で締めくり、花森は招かれて大政翼賛会宣伝部の一員となります。——ここに花森安治の遠謀を感じます。

そして言えるのは、花森のこの考え方は、学生時代も戦時中も、そして戦後も一貫しており、揺らぎもしなければ変節もしていないことです。その証左として、戦後の花森の『風俗時評』があげたいとおもいます。


1953


書 名 風俗時評 家庭文庫
著 者 花森安治(1911−1978)
扉挿画 花森安治
発行人 宮川三郎
発行日 昭和28年4月20日
発 行 東洋経済新報社
発行所 東京都中央区日本橋本石町3−2
印刷所 大日本印刷株式会社
判 型 タテ138×ヨコ138 上製丸背ミゾ 本文130ページ
定 価 130円


扉 画・花森安治


本書は昭和26年暮、ラジオ東京(現TBSラジオ)の開局と同時に始まった花森安治のトーク番組『風俗時評』を速記にとり、まとめたもの。あとがきによれば60数回の放送分のうち後半の四カ月分とのことですが、花森のモノの見かた考え方がよくわかる一冊となっています。『暮しの手帖』に書いた文章をあわせ読めばわかりますが、同じテーマを、その趣旨を変えずに、いろいろな具体的事実をあげて説くのは、花森安治の得意とする方法でした。


目次

奥付

今回、とくに注目していただきたいのは目次です。『みだしなみとくほん』に河合章子の名で載せている「洋服の手記」をごらんください。「黒ばやり」で始まっています。『風俗時評』も「黒の流行」で始まります。どちらも黒い衣服の流行批判になっていて、奇しくも同じ趣旨内容なのです。

花森安治は『暮しの手帖』でもやっていますが、文章やカットを何人かの筆名をつかってのせています。池島信平が「才能がありすぎる」と評したとおり、花森は何でもできた人ですから、他人にたのんで書いてもらうよりも、じぶんでやったほうが早く、思いのままになったのでしょう。とはいえ、すべて花森安治の名まえでやったのでは、人材のいない舞台裏が丸みえですし、豊かとはいえぬ台所事情までもうかがえます。もっとも、一人で両性のかけもちでは文体は当然おなじにしても、男名の文章が女っぽかったり、逆に女名の文章が男っぽかったりで、さすがの花森も混乱を避けられなかったようです。

卒業論文に『社会学的美学から見た衣粧』をかいた花森です。きものにしろ洋服にしろ、表面は時流にあわせているように見せかけながら、合理的な暮し方をもとめようとする花森安治の思想は、戦時中の『みだしなみとくほん』に見いだせ、戦後の『風俗時評』にも見いだせます。
(この項、次回もつづきます)


【つけたり】日本最初のFM放送局は、昭和35年東海大学に開局したFM東海実用化試験局である。昭和37年には名物番組『朝のコンサート』がはじまり、音質のよさをいかしたクラシック音楽を流した。その最初のキャスターが花森安治であったことを知る人はすくない。花森は自宅を焼失してからレコード蒐集をやめてしまったけれど、LPレコード3000枚を所有する「マニア」であった。クラシックのみならず、ジャズやダンス音楽、シャンソンまで幅広く集めていたという。

*8月22日より通常の更新(月水金の週3回)にもどります。引き続き、よろしくお願いします。