2011年10月25日火曜日

一戔五厘の旗 花森安治

1971


書 名 一戔五厘の旗   
著 者 花森安治(1911.10.25−1978.1.14)
発行者 大橋鎭子
発行日 昭和46年10月10日
発行所 暮しの手帖社
印刷者 北島織衛
印 刷 大日本印刷 
判 型 B5判 上製函入り 糸綴じ 本文342ページ
定 価 1200円



本体表紙


扉ウラ

奥付


【ひとこと】きょう10月25日は、花森安治生誕100年の日。その一生は、小生にとっては短すぎた。だから、生誕100年に意義がある。生誕200年も没後100年も、しょせん小生には縁がないのだから。

『一戔五厘の旗』——一戔に金偏がないのは、「銭」で人間の価値をあらわせるか、という花森の怒りがこめられている。

扉ウラに、この本の製作にかかわった人々の名まえが記されている(のちの増刷分では削除)。感謝とねぎらいの気持のあらわれであろう。名まえを記された人々は、大いに誇らしくおもったのではあるまいか。

目次を全ページ、下にかかげる。花森安治による選りすぐりのエッセー集だ。読みちがえようのない、簡明達意の名文である。多くのひとが感銘をうけ、また感動し、涙した。どのエッセーからも、生きることの意味を問いかける花森のおもいが、しみじみと、おだやかに、ときに激しく、悲しく、強く熱く伝わってくる。ぜひ、読んでいただきたい。かならずや夢と希望がわいてくるだろう。


表紙全体

目次1

目次2

目次3

目次4

あとがき 最後部分


【もうひとこと】花森安治は、原稿用紙にむかうまえ、愛用の万年筆を分解し、みずから流し台で洗っていた。その万年筆は、ペリカンだったかモンブランだったか、あるいはパーカーだったか。ゆっくりていねいに洗っている姿が印象的であった。おそらくそれは文章をかく前の、花森安治流の「儀式」だったのではないか。洗い始めたら、そのときは、構想ができあがったことを意味していたような気がする。


見返し(花森安治によるため書きは小生の宝ものである)


【おしらせ】今回の花森安治『一戔五厘の旗』をもちまして、最後の更新といたします。この一年間、拙ブログにお立ち寄りいただき、ありがとうございました。また、かってな妄語放言にお付きあいさせましたこと、いまさらながらお詫び申しあげます。

最後の最後まで恐縮ですが、『一戔五厘の旗』のあとで書かれた花森安治のエッセーが、まだまとめられていません。なんとか単行本にしてほしいものです。 それとともに、花森安治の装釘本が、出版文化史料として整理され、後世にのこることを、信州の片田舎で夢見ています。その夢は、同期に入社し、ともに花森の下で働き、いまは幽明境を異にする中川顯、堀口剛一の両君とて、同じであるにちがいありません。

2011年10月23日日曜日

【森の休日】第12回 連続と非連続 ⑥

わたしが『暮しの手帖』編集部に入ったのが昭和47年4月1日。その翌月末、第2世紀18号ができあがりました。本誌の目次最終ページには、スタッフ全員の名まえが記されていますが、そこに初めて、わたしの名も加えられたのです。感慨深いものが、やはりあります。


1972

けれどもその号には、わたしにとって理解できなかった記事がありました。花森安治署名入りの「総理大臣のネクタイ」がそれです。理解できなかった、というのは文章のことではありません。花森の文章は、いつものように具体例をひきながら平明で、わかりやすいのです。理解できなかったのは、なぜこんな文章を書いたのか、だれに言おうとしているのか、とてもまわりくどいからです。(以下、《》に印用)


文・挿画・レイアウト 花森安治



《どういうものか、たまに文章を書いて、大方の目にさらすと、必ずといっていいほど、読みちがえをする人が出てくる。そして、とどのつまりは、バカだのチョンだのハチのあたまだのと、もうこれ以上の悪口はない、ざまみろ、みたいな手紙をもらう破目になってしまう。》

《たまにしか書かない文章を、そのたびに読みちがえられたのでは、どうやせがまんしたって、通りいっぺんのうぬぼれなんぞ、一たまりもなく、しぼんでしまうのがあたりまえだろう》



わたしがこの文章をヘンに思い、理解できなかったのは、花森安治はその前年、読売文学賞(随筆紀行部門)を受賞していたからです。文学賞をもらった人間がいうことでは、ありません。書いたことを万人が理解することなどありえぬことは、編集者の花森がいちばんよくわかっていたでしょう。そもそも文章力にじしんがなければ、こんな文章を書いてのせることじたい、矛盾撞着なのです。

花森がここで訴えたかったのは、じぶんが書いた文章のことでは、おそらくありません。新聞雑誌の「取材談話記事」のことだと、いまになって思いあたります。わたしが入社したてのころ、編集部内には、花森への電話取材の申込みがあったときは、からだのぐあいの悪いことを告げて断るようにとの指示がありました。たしかに体調は万全ではありませんでしたが、ほんとうの理由は、「言ったことがちゃんと伝わらない、言ったおぼえのない内容になっている」からでした。花森はいくどかそう言ってボヤいたものです。

そこで思い出すのが入社当日、いならぶ部員たちを前に、 花森がわたしたち新入部員に言ったことばです。「ここではキミたちが、なぜかとおもうことがいっぱいあるはずだ。しかし一年間、なぜかと訊かないでほしい。説明してわかるならいいが、百万言ついやしてもわからないことがある。なぜかと疑問におもったら、じぶんで考えてほしい。一年もしたら、わかるだろう」。

花森は、ことばで解り合おうとすることに、なかば絶望していたのではないでしょうか。その意味で、この「総理大臣のネクタイ」は、全体が暗示的であるばかりでなく、きわめて預言的です。というのも花森がここで揶揄批判した総理大臣こそ、あの佐藤栄作でした。

新聞記者はウソを書くから嫌いだと、記者全員を会見室から追い出し、テレビカメラにむかって退陣を表明しました(1972/6/17)。沖縄の復帰を実現し(1972/5/15)、ノーベル平和賞を受け(1974/10/18)、そのウラで核国内持込みをみとめる密約をアメリカと結んでいました(2009/12/24発覚)。

ここで特記しなければならぬのは、花森がこの記事を書いたのは1972年の4月末、おそくとも5月始めであり、発行されたのが6月1日であったことです。『一銭五厘の旗』のあとがきに「ジャーナリストにとっては、なにを言ったかということの外に、そのことを<いつ>言ったか、ということが大きな意味をもつ」と書いています。

つまり、いまとなって考えると、この記事は、テレビを意識した総理大臣のパフォーマンスへの批判であり、それをゆるしてしまっている新聞雑誌への「警鐘」と読めば、わたしにもすんなり理解できるのです。それから40年、現在の政治状況とジャーナリズムのありようを見ると、ずいぶん奇妙なことになってしまった、という印象は否めません。


花森安治という編集者は、編集部でまいにち接し、内側から見ている姿と、雑誌や新聞などのメディアをとおして外側から見える姿には、当然のことながら違いがあります。入社前のわたしは、ながい間、映画を見たせいで宇野重吉さんをイメージしていて、あっけにとられたほどでした。だから、そこに誤解と伝説が生じるのはやむをえないのかな、と思います。

編集室での花森は、大政翼賛会のことを、まったく語らなかったわけではありません。たとえば「あの旗を射たせて下さい」というポスターのことを、お茶の時間に話していました。 しかし当時のわたしには、それが何を意味するのか、理解できずにいました。正直なところ、射る、という発想は那須与一から来ているのだろう、と賢しらに思っただけでした。むしろ、いまごろなぜ戦時中のことを話すのだろう、と違和を感じていたというのが正直な気持です。

また、花森はときおり声高らかに軍歌をうたって部員に聞かせました。「軍歌といえば全部ダメだと思っているかもしれないが、なかには歌詞曲ともに良いのがあるんだ」と何曲もうたいました。花森は発声ができていて、音感もあり、歌はじょうずでした。軍歌なのか唱歌なのか、わたしには区別がつきませんが、花森が好んでいた歌に「水師営の会見」があります。わたしはそのおかげで「敵の将軍ステッセル」の名まえを憶えたほどでした。乃木大将の「やって見せ、言って聞かせて、やらせてみて、ほめてやらねば」という言葉をなんど聞いたものか。しかしそれも、年寄りにありがちな昔話とおもったものです(かく申す小生のブログもおなじこと)。


挿画・レイアウト 花森安治


花森の「総理大臣のネクタイ」とおなじ号に、佐多稲子の「ある女性の今日」という随筆がのっています。見出しと本文にそえた挿画をみて、そのころ判らなかった花森の気持が、いま、ほんの少しだけわかるような気がします。生活社からだした「婦人の生活シリーズ」の挿画と、それはよく似ているのです。ただ、佐多の随筆は、きものとはまったく関係がありません。

でもこの号に、花森が帯や絣の端布の挿画をかいてのせたことは、はじめに引用した花森のことばを合せ考えると、みずからへの誤解の多さ、いわれなき反感の大きさを、悲しむのでも諦めるのでもなく、だからこそ一本のペンを信じ、いのちを賭けて修羅の巷を生きぬこうとする決意を感じさせます。



【おしらせ】「連続と非連続」は、これをもって最終回とします。花森安治にとって、なにが連続で、なにが非連続であったのか、考えるための材料の一部をならべてみました。

わたしなりの結論は、歴史であれ、人生であれ、「非連続」はありえない、ということです。たとえば小説のジャン・バルジャンやモンテ・クリスト伯も、過去を断ちきって生きる設定にはなっていますが、人間としての同一性を断ちきることはできませんでした。

人間は変わるものです。しかし、変わらないものもあります。花森安治が「過去を封印した」という見方をするひとがいますけれど、いささか安直すぎる決めつけではないか、そんなふうに疑っています。

あす月曜のブログ定期更新を、一日延期します。ご了承ください。

2011年10月19日水曜日

われらいかに死すべきか 松田道雄

1971


書 名 われらいかに死すべきか   
著 者 松田道雄(1908−1998)
発行人 大橋鎭子
発行日 昭和46年8月1日(2刷)
発 行 暮しの手帖社
発行所 東京都中央区銀座8−5−15
印刷人 北島織衛
印 刷 大日本印刷株式会社 
印刷所 東京都新宿区市谷加賀町1−12
判 型 B6判 上製函入り 糸綴じ 本文276ページ
定 価 580円


表紙


奥付


【ひとこと】肉厚のかき文字によって、「われら」の一語にこめた、松田道雄と花森安治の固い友情を感じる。「われらいかに死すべきか」という書名にこめた、ふたりの思想がいっそう力強く迫ってくる。装釘が、ふたりの思想家の真剣勝負になっていることに、感動する。


表紙全体


【もうひとこと】花森安治は昭和44年2月、取材先の京都で心筋梗塞にたおれた。現在のステント挿入治療術のない医療では、絶対安静のほかなく、花森は倒れたホテルの病室のベッドにくぎづけを余儀なくされた。その花森を、まいにち欠かさず往診にみまったのが松田道雄であった。

『わられらいかに死すべきか』の書名には、死の淵をさまよった花森と、つきそった松田の、 同時代を生きたものだけに通いあう「対話」が感じられる。それはまた、その後に生きるものへの問いかけであり、期待でもあったであろう。

ふたりの思いは、時計が刻む秒針の音となって、静かにつたわってくる。「きみたちは守るにあたいする暮しをしているか」と——。

2011年10月17日月曜日

女の食卓 田辺聖子

1975


書 名 女の食卓   
著 者 田辺聖子(1928−)
発行人 野間省一
発行日 昭和50年5月16日
発 行 講談社 
発行所 東京都文京区音羽2−12−21
印 刷 豊国印刷株式会社 
製 本 藤沢製本
判 型 四六判 上製カバー 糸綴じ 本文230ページ
定 価 780円


表紙

表紙ウラと見返し


本文扉

奥付


【ひとこと】田辺聖子の短篇小説集である。この装釘に、花森安治がいかに熱を入れたか、表紙ウラから見返しにわたるイラストからも、十二分にうかがえる。田辺の小説の一部を、花森はローマ字で書きうつしている。ちょっとやりすぎじゃないの、と茶化したくなるけれど、田辺の本を装釘できるのが、よほどうれしかったのだろう。小生もうれしい。

なにをかくそう花森は、『週刊文春』連載の人気読物、田辺のカモカのおっちゃんシリーズの、かくれたファンであった。小生はそれを意外におもったものだが、意外におもうほうが、なにかに毒されていたのかもしれぬ。


表紙全体

カバー全体


【もうひとこと】田辺の小説にでてくる若い女性は、男の小生からみると、むしろ古風でつつましい。片意地はって、男をおしのけてまで進もうというようなタイプでは、けっしてない。いとおしくなり、抱きしめたくなるような女性を多く描いている。カバーに描かれた女性も、とても楚々と感じられるが、いかが。

それにしても、髪の色といい、ドレスの色といい、すてきだ。藤城清治が、花森の絵はデッサンがしっかりしていると評したが、人物画でもそれは言えるだろう。小生は専門家ではないが、ドレスの上からでも、女性のからだの線がなめらかで、ふくよかなことくらいはわかる。


カバー全体


【さらにひとこと】このような装釘が可能だったのも、まだウラがわにバーコードが入らない時代であったからだ。流通の効率化のためのバーコードは、装釘家やブックデザイナーたちの創造力に、重い「枷」をはめたのではなかろうか。小生寡聞にして、バーコードに正面切って異議をとなえている装釘家は、和田誠さんだけしか知らぬ。美しい装釘に、バーコードなんか似合わない。

花森安治は言っていた。——じぶんで考えようとせず、命令されてしか動けないなら、それは人間ではなくて奴隷だ。なっ、カラサワくん、きみの頭は帽子をかぶるためにあるんじゃないだろ、とね。

2011年10月14日金曜日

英吉利乙女 菊池重三郎

1951


書 名 英吉利乙女   
著 者 菊池重三郎(1901−1982)
発行人 大橋鎭子
発行日 昭和26年12月5日
発 行 暮しの手帖社
発行所 東京都中央区西銀座8−5
印刷人 青山與三次郎
印 刷 青山印刷株式会社 
印刷所 東京都港区芝愛宕町2−85
製 本 佐藤賢一郎
判 型 B6判 上製函入り 糸綴じ 口絵共本文220ページ
定 価 230円


函おもて

函背


本文扉

奥付


【ひとこと】『アラバマ物語』で紹介したように、菊池重三郎は『藝術新潮』の初代編集長。花森安治はその常連寄稿者であり、座談会記事の出席者であった。親しい間柄だからこそ、花森安治も気合いが入ったであろう。ましてや相手は芸術誌の編集長だ。おのずと創作意欲が高まったのではないか。手間をかけた本書の装釘を、花森みずから納得のゆく作品と認めている。


表紙全体

【もうひとこと】花森は、装本者名のかたわらに「手彩色」と記した。これは函の絵柄をさしている。花森じしんが彫った版画を絵柄としているが、多色刷りではなく、彩色は手(筆)になるとの意味であろう。棟方志功の版画に見られる手法である。とはいえ、それは印刷前の原画の話であって、花森が函の一つひとつに彩色したものではない。

2011年10月12日水曜日

笠信太郎全集

1969

函 背

函 ウラ


書 名 笠信太郎全集 第一巻 世界と日本   
著 者 笠信太郎(1900−1967)
著作権 笠初恵
発行人 大田信夫
発行日 昭和44年3月25日(全八巻/第五回配本)
発 行 朝日新聞社
印 刷 凸版印刷 
判 型 B6判 上製布装丸背ミゾ函 糸綴じ口絵共本文732ページ
定 価 950円


表紙


奥付

ウラ表紙


【ひとこと】笠信太郎は、戦後14年間にわたって朝日新聞の論説主幹をつとめた。笠信太郎の業績の大きさと信任の厚さを、なにより本全集の刊行があらわしている。

花森安治の装釘作品には、個人全集に準ずるものに、戦後まもない時期の『石川達三選集』(八雲書店刊)、『伊藤整作品集』(河出書房刊)などがある。 けれどその体裁の立派さ重厚さからいえば、本全集はひときわ力強く目立つ。

花森は、この装釘の絵柄にも、時計をえらんだ。笠が懐中時計を愛用していたのかもしれないが、時計によって笠の生きた時間を象徴したかったのであろう。ウラ表紙は、時計のウラ蓋の絵柄になっていて、そこに笠のイニシャルがデザインされている。生きるということは、個々人の時間を歴史に刻むことであり、大なり小なり時代の責任を担った、ということではないだろうか。


表紙全体


【もうひとこと】笠信太郎は『暮しの手帖』にも寄稿した。「日本人なくてななくせ」は卓見のエッセーで、小生も高校生のころに読み、目からウロコが大量に落ちたはいいが、なまいきにその受け売りをやって、周囲のヒンシュクを買ったものであった。しょうじきに白状すれば、笠が指摘した「くせ」を、小生は全部もっている。くせというヤツ、いちど身につくと、なおらないようである。

笠の「日本人なくてななくせ」は、暮しの手帖社から『なくてななくせ』と題して上梓されており、本全集第五巻にも収載されている。



全八巻の函のウラをならべたところ


【さらにひとこと】本全集とは別に、ほぼ同体裁の『回想笠信太郎』がある。同時代に生きた人々による回想集であるが、こういうものにも時代の断面は映されており、意外と資料的価値は高い。

戦時下におかした大新聞のあやまちを批判することはやさしい。だが、いつでも問題は眼前にあり、責任が生じる。「船長不在」の巨艦から降りるか、あるいはとどまるか。どこへ向うにも、目はしと小回りのきくタグボートは必要とされる。 笠信太郎は、戦後朝日を牽引したジャーナリストであった。

2011年10月10日月曜日

日本の映画 飯島正

1956


書 名 日本の映画 −話題の作品をめぐって−   
著 者 飯島正(1902−1996)
発行人 服部幾三郎 
発行日 昭和31年8月10日
発 行 同文館
発行所 東京都千代田区神田神保町1−23
印刷人 亀井辰朗
印 刷 三省堂ミタカ工場 
製 本 栄久堂製本
判 型 新書判 並製カバー 糸綴じ 口絵共本文180ページ
定 価 150円


表紙全体


奥付


【ひとこと】同文館「映画の知識シリーズ」全15巻のうちの一冊。このシリーズのカバーは、花森安治のおなじイラストをつかっており、内容は口絵(写真)が24ページもあって、なつかしさが募る。

花森のカバー絵は、芋版画のようにも見えるけれど、フチのかすれ具合や模様が、版画のそれとは微妙にちがっている。ともあれ感心するのは、四色の円形模様の配置、その間合い。けっして等間隔ではないが、絶妙の均衡をたもっている。しかも「映画の知識シリーズ」の下に余白をとり、それを「同文社」の社名でささえることによって、全体の構図に緊張をあたえている。こういうなんということもない単純なデザインに、花森安治の持ち味がよくあらわれている、と小生はおもう。


カバー全体


【もうひとこと】本書末の広告に、「映画の知識シリーズ」全15巻の書名と著者を紹介していた。
『映画の教育』阿部慎一、『映画の歴史』清水千代太、『外国の映画界』植草甚一、『日本の映画』飯島正、『映画宣伝戦』南部圭之助、『撮影所に働く人々』岸松雄、『映画の美術』松山崇、『映画撮影術』島崎清彦、『映画俳優術』尾崎宏次、『映画用語事典』野口久光、『映画社会学』南博、以下は書名のみで執筆者未定。『映画の生まれるまで』『映画のシナリオ』『映画監督』『映画の音楽』。

ちなみに昭和三十年代前後の『暮しの手帖』は、津村秀夫が「映画ノート」をかき、その後「映画通信」のタイトルで、筈見恒夫につづき双葉重三郎がかいている。のちに本田静哉、古谷綱正、沢木耕太郎ら、いわゆる業界以外のひとに映画評を書かせるようになった。

【さらにひとこと】花森安治のしたで働いていた六年のあいだ、二ど小生ら部員を映画を観につれて行ってくれた。 一どは邦画(日本映画)で『八甲田山』、脚本橋本忍、監督森谷司郎、1977年東宝作品である。映画をみた翌日、花森は言った。「橋本忍が訴えたかったのは、リーダーの資質ということだろうね」。花森は花森なりに、行く末を危惧するところがあったのだろう。