2011年10月23日日曜日

【森の休日】第12回 連続と非連続 ⑥

わたしが『暮しの手帖』編集部に入ったのが昭和47年4月1日。その翌月末、第2世紀18号ができあがりました。本誌の目次最終ページには、スタッフ全員の名まえが記されていますが、そこに初めて、わたしの名も加えられたのです。感慨深いものが、やはりあります。


1972

けれどもその号には、わたしにとって理解できなかった記事がありました。花森安治署名入りの「総理大臣のネクタイ」がそれです。理解できなかった、というのは文章のことではありません。花森の文章は、いつものように具体例をひきながら平明で、わかりやすいのです。理解できなかったのは、なぜこんな文章を書いたのか、だれに言おうとしているのか、とてもまわりくどいからです。(以下、《》に印用)


文・挿画・レイアウト 花森安治



《どういうものか、たまに文章を書いて、大方の目にさらすと、必ずといっていいほど、読みちがえをする人が出てくる。そして、とどのつまりは、バカだのチョンだのハチのあたまだのと、もうこれ以上の悪口はない、ざまみろ、みたいな手紙をもらう破目になってしまう。》

《たまにしか書かない文章を、そのたびに読みちがえられたのでは、どうやせがまんしたって、通りいっぺんのうぬぼれなんぞ、一たまりもなく、しぼんでしまうのがあたりまえだろう》



わたしがこの文章をヘンに思い、理解できなかったのは、花森安治はその前年、読売文学賞(随筆紀行部門)を受賞していたからです。文学賞をもらった人間がいうことでは、ありません。書いたことを万人が理解することなどありえぬことは、編集者の花森がいちばんよくわかっていたでしょう。そもそも文章力にじしんがなければ、こんな文章を書いてのせることじたい、矛盾撞着なのです。

花森がここで訴えたかったのは、じぶんが書いた文章のことでは、おそらくありません。新聞雑誌の「取材談話記事」のことだと、いまになって思いあたります。わたしが入社したてのころ、編集部内には、花森への電話取材の申込みがあったときは、からだのぐあいの悪いことを告げて断るようにとの指示がありました。たしかに体調は万全ではありませんでしたが、ほんとうの理由は、「言ったことがちゃんと伝わらない、言ったおぼえのない内容になっている」からでした。花森はいくどかそう言ってボヤいたものです。

そこで思い出すのが入社当日、いならぶ部員たちを前に、 花森がわたしたち新入部員に言ったことばです。「ここではキミたちが、なぜかとおもうことがいっぱいあるはずだ。しかし一年間、なぜかと訊かないでほしい。説明してわかるならいいが、百万言ついやしてもわからないことがある。なぜかと疑問におもったら、じぶんで考えてほしい。一年もしたら、わかるだろう」。

花森は、ことばで解り合おうとすることに、なかば絶望していたのではないでしょうか。その意味で、この「総理大臣のネクタイ」は、全体が暗示的であるばかりでなく、きわめて預言的です。というのも花森がここで揶揄批判した総理大臣こそ、あの佐藤栄作でした。

新聞記者はウソを書くから嫌いだと、記者全員を会見室から追い出し、テレビカメラにむかって退陣を表明しました(1972/6/17)。沖縄の復帰を実現し(1972/5/15)、ノーベル平和賞を受け(1974/10/18)、そのウラで核国内持込みをみとめる密約をアメリカと結んでいました(2009/12/24発覚)。

ここで特記しなければならぬのは、花森がこの記事を書いたのは1972年の4月末、おそくとも5月始めであり、発行されたのが6月1日であったことです。『一銭五厘の旗』のあとがきに「ジャーナリストにとっては、なにを言ったかということの外に、そのことを<いつ>言ったか、ということが大きな意味をもつ」と書いています。

つまり、いまとなって考えると、この記事は、テレビを意識した総理大臣のパフォーマンスへの批判であり、それをゆるしてしまっている新聞雑誌への「警鐘」と読めば、わたしにもすんなり理解できるのです。それから40年、現在の政治状況とジャーナリズムのありようを見ると、ずいぶん奇妙なことになってしまった、という印象は否めません。


花森安治という編集者は、編集部でまいにち接し、内側から見ている姿と、雑誌や新聞などのメディアをとおして外側から見える姿には、当然のことながら違いがあります。入社前のわたしは、ながい間、映画を見たせいで宇野重吉さんをイメージしていて、あっけにとられたほどでした。だから、そこに誤解と伝説が生じるのはやむをえないのかな、と思います。

編集室での花森は、大政翼賛会のことを、まったく語らなかったわけではありません。たとえば「あの旗を射たせて下さい」というポスターのことを、お茶の時間に話していました。 しかし当時のわたしには、それが何を意味するのか、理解できずにいました。正直なところ、射る、という発想は那須与一から来ているのだろう、と賢しらに思っただけでした。むしろ、いまごろなぜ戦時中のことを話すのだろう、と違和を感じていたというのが正直な気持です。

また、花森はときおり声高らかに軍歌をうたって部員に聞かせました。「軍歌といえば全部ダメだと思っているかもしれないが、なかには歌詞曲ともに良いのがあるんだ」と何曲もうたいました。花森は発声ができていて、音感もあり、歌はじょうずでした。軍歌なのか唱歌なのか、わたしには区別がつきませんが、花森が好んでいた歌に「水師営の会見」があります。わたしはそのおかげで「敵の将軍ステッセル」の名まえを憶えたほどでした。乃木大将の「やって見せ、言って聞かせて、やらせてみて、ほめてやらねば」という言葉をなんど聞いたものか。しかしそれも、年寄りにありがちな昔話とおもったものです(かく申す小生のブログもおなじこと)。


挿画・レイアウト 花森安治


花森の「総理大臣のネクタイ」とおなじ号に、佐多稲子の「ある女性の今日」という随筆がのっています。見出しと本文にそえた挿画をみて、そのころ判らなかった花森の気持が、いま、ほんの少しだけわかるような気がします。生活社からだした「婦人の生活シリーズ」の挿画と、それはよく似ているのです。ただ、佐多の随筆は、きものとはまったく関係がありません。

でもこの号に、花森が帯や絣の端布の挿画をかいてのせたことは、はじめに引用した花森のことばを合せ考えると、みずからへの誤解の多さ、いわれなき反感の大きさを、悲しむのでも諦めるのでもなく、だからこそ一本のペンを信じ、いのちを賭けて修羅の巷を生きぬこうとする決意を感じさせます。



【おしらせ】「連続と非連続」は、これをもって最終回とします。花森安治にとって、なにが連続で、なにが非連続であったのか、考えるための材料の一部をならべてみました。

わたしなりの結論は、歴史であれ、人生であれ、「非連続」はありえない、ということです。たとえば小説のジャン・バルジャンやモンテ・クリスト伯も、過去を断ちきって生きる設定にはなっていますが、人間としての同一性を断ちきることはできませんでした。

人間は変わるものです。しかし、変わらないものもあります。花森安治が「過去を封印した」という見方をするひとがいますけれど、いささか安直すぎる決めつけではないか、そんなふうに疑っています。

あす月曜のブログ定期更新を、一日延期します。ご了承ください。