2012年7月23日月曜日

【花森安治表紙原画展をみる 第2信】

 『暮しの手帖』の第Ⅰ世紀には、女性を描いた表紙はいちどもなかった花森安治でしたが、第Ⅱ世紀ではたびたび描くようになりました。

その動機はつまびらかではありません。1970年代に入ると出版界は雑誌の創刊ブームが始まっていました。女性誌もきそって刊行されており、それが少なからず影響していたとおもいます。『暮しの手帖』が若い世代に「主婦の雑誌」とみられ、書店で手にもとってもらえず、むざむざ見捨てられてたまるか、という気持が花森にあった、とおもうのです。


暮しの手帖 Ⅱ−25号表紙 1973

暮しの手帖 Ⅱ−31号表紙 1974

暮しの手帖 Ⅱー37号表紙 1975


たとえば夏発行の<JULY-AUGUST>号だけを出して並べてみます。いかに花森が表紙のマンネリ化をさけようとし、若い女性読者層を獲得しようとしていたか、想像にかたくありません。しかも斬新であろうとしたか、つぶさにわかります。このような表紙の自由さは、とりわけ「広告をのせる台」としてのファッション誌には、なかなかできないことでした。

花森が描いた女性の表紙画のみかたは、いろいろあるでしょう。特記すべきことは、表現者としてのこの<自由>さです。かつてこのブログで、花森が中原淳一を評したことばを紹介し、それを小生は花森の自戒とみたてました。

《彼(=中原淳一)が、いまさら芸術家扱いされたがったり、「抒情画家」でなく「画家」になりたがったりすることは、愚劣である。インテリぶる必要などましてない。第一できない。
ふてぶてしく、俺は叙情画家である、俺は少女相手の画工である、とうそぶける不敵さ、その面だましいを身につけることである。その方が、かえって彼の悲願にも案外近づくことになるのではないか。》

「僕はほんものの絵描きじゃないから表紙画を描けるんだ」と花森は言っていますが、その真意は中原への評言からもうかがえそうです。世田谷美術館の矢野進学芸員も「花森作品の持つ魅力は、色々な画材で好きなスタイルを自由に試みたあたりにありそうだ」と指摘します。(花森安治が描いた表紙画『花森安治 美しい「暮し」の創始者』河出別冊2011年刊所収)


【耳よりな話】世田谷美術館展示室には、暮しの手帖社の協力により花森安治編集の『暮しの手帖』も供されており、観覧者が自由に手にとって、ソファーでゆっくりごらんいただけるようです。観覧料200円は安すぎです(月曜休館)。