2013年11月22日金曜日

花森安治伝——日本の暮しをかえた男

2013

書 名 花森安治伝——日本の暮しをかえた男
著 者 津野海太郎
装 釘 平野甲賀
発行日 2013年11月20日
発行人 佐藤隆信
発行所 新潮社
印 刷 大日本印刷株式会社
製 本 大口製本印刷株式会社
寸 法 タテ196×ヨコ136ミリ
本 文 296ページ 後付・引用文献一覧および略年譜書誌
定 価 本体1900円(税別)

新刊「花森安治伝——日本の暮しをかえた男」新潮社をちょうだいした。担当編集者の添状を引用させていただく。本書のなによりの紹介となっている。


《「私は花森を、戦後といわず、近代日本が生んだもっとも独創的な編集者だったと考えている。なぜあれほど独創的でありえたのか。その理由をぜひ知りたいと願っている」——(序より)と著者が記すとおり、『暮しの手帖』の存在は、半世紀以上経たいまも、私たちを刺激してやみません。

日本の雑誌や、出版にたずさわる人々に多大な影響を与え、のみならず暮らし方を画期的に変えた『暮しの手帖』——この稀有な雑誌を、花森がなぜ創刊したのか。生涯語らなかった戦時中の活動は、彼にとってどんな意味があったのか? 戦前や戦中の花森の作ったものをたどり、戦時下の手帖、伴侶との私信、卒論の草稿など、これまでに公開されたことのない貴重な資料の数々を得て、跡づけています。

『暮しの手帖』の幼い読者で、その影響を編集者となって自覚したという津野さんが真正面から取り組み、季刊誌『考える人』での連載をふくめると足かけ4年にわたる時間をかけて書き上げた、本格評伝です。》



カバー裏面





2013年10月25日金曜日

花森安治 calendar2014

花森安治calendar2014 表紙


品 名 花森安治カレンダー2014
デザイン L'espace
発 行 株式会社グリーンショップ
発行所 東京都新宿区北新宿1-35-20 
印 刷 大日本印刷株式会社
大きさ タテ515×ヨコ300ミリ 表紙台紙共14枚つづり
価 格 1680円(税込)

2014年版の花森安治カレンダーをちょうだいした。
御恵投くださったかたの名まえを記すのは秘すけれど、志賀直哉にならっていえば、気品あるバールフレンドのお一人からである。贈ってもらいながら、バールフレンドとは失礼な!、と顰蹙を買うだろうが、さりとてガールとおよびするにはもう・・・(ごめんなさい)。しかし、老いてますます気品を失わないかたの知遇を得ていると、しみじみゆたかな気持になれる。ありがとうございました。

新しいカレンダーは、花森安治のすてきな絵と写真によって構成され、イラストも添えている。いずれも創刊から100号までの『暮しの手帖』第1世紀の表紙をかざった作品で、1年のうち、5、6、7、10月に写真の表紙を採用していた。見どころは、なんといっても絶妙な構図のとりかたと卓越した色づかい。いまなおあせることのない装釘家としての花森のセンスのよさが、直につたわってくる。花森ファンにはたまらないカレンダーであろう。お問いあわせはグリーンショップまで。

らいねんは東日本大地震の発生から早3年めをむかえる。ちなみに花森安治カレンダー2014版の3月は、上掲の日用品を描いた絵(1957年7月発行第40号)をつかっている。仮設住宅や遠くに避難生活をよぎなくされている人々を、一刻もはやく震災前の暮しにもどしてあげる——それが政府のいちばん優先すべき課題ではないか。天も地も、慟哭している。


きょう10月25日は、今はなき花森安治の誕生日、ことしは生誕102年にあたる。さまざまことが思いだされるけれど、ひっきょう繊細でやさしく、かたい信念の人であった。

ぼくら このごろ すこしばかり やさしい気持を
なくしてしまったような気がする 
ごくたまに きれいな青い冬の空が みえることがある 
それをしみじみと 美しいとおもって みることをしなくなった
はだかの電線が ひゅうひゅうと鳴っている
その音に もう かすかな春の気配を きこうとしなくなった
早春の 道ばたに 名もしらぬ雑草が
ちいさな青い芽を出している それを 
しんじつ いとおしいとおもって みることをしなくなった

——花森安治「みなさん物を大切に」から



【卓上タイプ】
上・卓上タイプ表紙  下・収載の表紙絵12枚 

花森安治カレンダー2014には、卓上タイプもある。絵柄は、壁掛タイプとかさならないように別の表紙絵(下の12枚)をえらんでいる。 たとえば会社のデスクなどにおすすめで、使い方のひとつとして、ケースから出し透明ビニールマットの下に数ヶ月分をならべると、ゴールデンウイークや連休がひと目でわかり、なにかと便利。いや、遊ぶことばかり考えている、と誤解しちゃいけませんぞ。あくまでも先々の見通しをつけるため。こちらはタテ100×ヨコ150ミリ、表紙共14枚、透明プラケース付、税込価格1100円。


【新刊情報】
来る11月22日、かねて待望の津野海太郎著『花森安治伝 日本の暮しをかえた男』が新潮社から刊行されます。2010年から9回にわたり季刊誌「考える人」に連載した文章に、さらなる知見と検証を深め、大はばに加筆したとつたえられます。たのしみです。


2013年8月15日木曜日

終戦の日にひびけ『灯をともす言葉』


2013


書 名 灯をともす言葉
著 者 花森安治
監 修 土井藍生
構 成 鈴木正幸
組 版 鈴木成一デザイン室
発行日 平成25年7月20日
発行者 小野寺優
印 刷 株式会社暁印刷
製 本 加藤製本株式会社
発 行 株式会社河出書房新社
発行所 東京都渋谷区千駄ヶ谷2-32-2
判 型 四六判変型 200ページ ソフトカバー
定 価 本体1300円税別

監修者の土井藍生さんから新刊をちょうだいした。それがありがたく、なによりうれしい。
藍生さんは花森安治のご息女。添えられたお便りに、表紙につかわれている市松模様は、花森がこのんだ模様の一つで、書籍では河盛好蔵『あぷれ二十四考』につかい、松江の一畑百貨店の依頼によりデザインした包装紙にもつかわれたと書かれていた。小生の記憶にまちがいがなければ、中華レストラン新橋王府の入口内壁も大きな市松模様で、いかにも中華チュウカしていないところが新鮮であった。王府のロゴをはじめとする種々の意匠は、花森安治のデザインであった。その王府も、料理長であった穏和な戰美樸さんも、いまはないけれど——。


本体表紙


この夏、本書が刊行された意義は大きい。きょう68回めの終戦の日をむかえ、本書の中から、花森安治のつぎの言葉をもって、憲法第九条の改定に反対したい。


《人間の歴史はじまって以来、
世界中どこの国もやったことのないこと、
やれなかったことを、
いま、日本はやってのけている。
日本国憲法第九条。
日本国民は……
武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
なんという、すがすがしさだろう。
ぼくは、じぶんの国が、
こんなすばらしい憲法をもっていることを、
誇りにしている。
あんなものは、押しつけられたものだ、
画(え)にかいた餅だ、単なる理想だ、という人がいる。
だれが草案を作ったって、
よければ、それでいいではないか。
理想なら、全力をあげて、
これを形にしようではないか。
全世界に向って、武器を捨てよう、と
いうことができるのは、日本だけである。
日本は、それをいう権利がある。
日本には、それをいわなければならぬ義務がある。》

ー花森安治「武器をすてよう」ー初出『暮しの手帖』97号(1968)、『一戔五厘の旗の』所収


カバー全体(オビ共)

【ひとこと】
本書収載の花森語録には、拙著『花森安治の編集室』からも採録されている。花森の言葉は、どの一語一句にもその才智があふれており、多くの言葉の中から選ぶのは苦労したとおもわれる。それだけに拙著からの採録はおもいがけず、光栄でした。感謝します。

言わずもがなながら、諸賢の興味と関心をあおるために申すならば、本書には仕掛けがある。大まじめに読んでいると、ところどころで噴きだしてしまうこと請け合い。電車内などでお読みになる御仁は、くれぐれも御注意めされ。


【もうひとこと】
「終戦の日」や「終戦記念日」という言い方に異論を唱えるひとが、昔も今もいる。潔く「敗戦」を認めるべきだ、というのが昔の異論であった。これについて花森のことばが残っている。

《日本人は八月十五日を敗戦といわないで終戦という、とよく問題にされますが、ぼくも敗戦という感じを持たなかった。終った、すんだ、言葉にすれば終戦ですね。しかし漢字で表すと、「了」、完了の「了」という字を書きたい気持ちでしたね。》「僕らにとって8月15日とは何であったか」ー初出毎日新聞社『1億人の昭和史4空襲・敗戦・引揚』1975

無益な戦争を体験し、その辛酸をなめつくすことを余儀なくされた日本人にとって、戦争はこれっきりで終りにしたい、という強い思いが「終戦の日」もしくは「終戦記念日」という表現をとらせたのではないか。

懸念すべきは現今の異論である。「敗戦記念日」をいう人のなかに、その対極として「戦勝記念日(海軍の日・陸軍の日)」を復活させようという意図が見えかくれしている。戦争体験者が少なくなるにつれ、若い人にこのような浅薄な思考が増えるのは、とても残念におもう。

2013年5月25日土曜日

世田谷美術館 大橋鎭子さん追悼展

世田谷美術館では、大橋鎭子さんを追悼し、『暮しの手帖』表紙絵の原画展を下記のとおり開催しています。従来の企画展のような展示ではありませんが、「3月23日に93歳で逝去された暮しの手帖社社主・大橋鎭子さんを偲んで、ささやかながら追悼の意を込め、当館所蔵の花森安治『暮しの手帖』表紙絵原画(8点)を展示」することに急遽きまったそうです。

特設展示コーナーは観覧無料。花森の原画には、見るたびに新たな発見の喜びがあるでしょう。じっくりご覧ください。絵はとても細密です。読書用メガネをお忘れなきよう。

展示期間:2013年5月21日(火)~6月23日(日)
展示場所:世田谷美術館2階 ライブラリー前
出品作品:花森安治『暮しの手帖』表紙絵原画
世田谷美術館についての詳細は、http://www.setagayaartmuseum.or.jp/


No.1
No.2
No.3
No.4
No.5
No.6
No.7
No.8

上掲は、表紙となって刊行されたもの。 展示している原画は下のとおりです(世田谷美術館作成)。
№ 掲載号数  発行年月   材質、技法
1.1世紀 1号  1948年 9月   紙、水彩
2.1世紀10号 1950年12月  紙、水彩、色鉛筆、鉛筆
3.1世紀19号 1953年 3月   紙、オイルパステル、色鉛筆、鉛筆、スクラッチ
4.1世紀26号 1954年12月  紙、オイルパステル、グワッシュ、スクラッチ
5.1世紀37号 1956年12月  紙、色鉛筆、水彩
6.1世紀40号 1957年 7月   紙、カンヴァスボード、鉛筆、グワッシュ
7.2世紀 1号  1969年 7月  合板、グワッシュ
8.2世紀53号 1978年 4月  カンヴァス、油彩

*美術館の案内とじっさいの展示作品には違いがあるかもしれません。ご確認ください。



暮しの手帖1世紀100号記念に創刊メンバー花束贈呈。
写真右から二人めが鎭子さん(写真の複製転載を禁ず)


花森安治の逝去後、田宮虎彦が鎭子さんにあてた手紙がありました。いちばんの讃辞だとおもえます。以下にひいて、あらためて鎭子さんをしのびます。

《・・・花森君があれだけのことが出来たのは、もちろん花森君が立派だったからには違いありませんが、やはりあなたの協力があったからこそと思います。こんなことを私が言うのは筋違いであり、おかしなことかも知れませんが、花森君が力いっぱい生きることが出来、あのようにすばらしい業績を残したことについての、あなたのお力に対し、あつく御礼申しあげます。》 酒井寛『花森安治の仕事』所収


「暮しの手帖」とわたし 大橋鎭子  暮しの手帖社 2010

鎭子さんは東京生れですが、幼いころ北海道に育っています。おなじ北海道出身で、花森安治の装釘で縁が深かったのが作家の伊藤整でした。伊藤がつくった詩「もう一度」が、なぜかわたしには鎭子さんの著書の表紙絵から聞こえてきます。鎭子さんもまた戦争に青春をうばわれた人でした。

伊藤整 もう一度

みんながあの日の服装で
あの日の顔つきで 落葉松の緑が萌えてゐる道を
笑ひながらもう一度やつて來ないかな。
そのときこそは間違ひなく
本當に生き直したい
あの過ちをすべて とりかへしたい。

2013年3月30日土曜日

しょうけい館 花森安治展をみる

一階フロアの左手おくに、企画展コーナーがあった。美術館にくらべ規模こそ小さいが、花森安治の傷病兵としての経歴にスポットをあて、そこから戦後の『暮しの手帖』のしごとを逆投影している。花森の知られざる一面がきわだつ企画になっており、展示構成もみごとだ。


パンフレット(3ページ)
展示資料一覧(1ページ)


入口受付でパンフレットと展示資料一覧をもらう。展示品で特記すべきは、世田谷美術館では公開されなかった花森の戦時中の写真と手帳、妻と愛娘にあてた書簡、遺品の数々であろう。夫として、父親として、ひとりの男が生きた証がいまなお<在る>ことに、厳粛を感じた。

それだけではない。かつて暮しの手帖研究室の屋上にひるがえっていた<一戔五厘の旗>も展示されていた。風雨にさらされ、くたびれやぶれ、いろあせた木綿の旗に、わたしは意外にも花森安治の人生を見るおもいがした。無言のボロ旗は、花森安治のやさしさと深い悲しみを、重く低く訴えているようであった。

展示資料に「花森安治年表」がそえられている。さすが戦傷病者資料館だけに、戦時中の花森について、これまでになく詳しく調べてある。蒙を啓かれた。わたしは杉山平一の話をうのみにし、花森の内地療養先を和歌山の陸軍病院とばかり思いこんでいたが、そうではなかった。大阪陸軍病院深山分院が正しいようだ。学芸員の誠実をありがたくおもいました。感謝します。

5月12日まで。月曜休館。入館無料。ぜひ、ごらんください。わたしも再訪したい。

2013年3月6日水曜日

しょうけい館 花森安治展案内リーフ

3月20日、しょうけい館春の企画展が開催。
「戦中・戦後の戦病者〜二度の除隊を経て花森安治の歩み〜」


案内リーフおもて 2013

案内リーフうら


くわしくはしょうけい館のホームページをごらんください。
http://www.shokeikan.go.jp/

関連イベントに、ご息女の土井藍生さんが「父花森安治の思い出話」を、また「学芸員による展示解説」も予定されています。

学校は春やすみ。ぜひ、お子さんづれで、ご家族でお出かけください。戦争の悪と悲惨さを次世代につたえてください。入館無料。

【厚生労働省の報道関係者むけ資料】
http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000002wltk.html

【ブログ再掲】花森安治の戦後のしごとを代表するのが『戦争中の暮しの記録』です。二年まえの拙ブログですが、こちらもご覧いただけますとしあわせです。
http://sotei-sekai.blogspot.jp/2011/03/blog-post_27.html 

2013年1月31日木曜日

しょうけい館

しょうけい館という施設をごぞんじですか。
東京九段下にあり、ホームページに、つぎのように紹介しています。

《しょうけい館は、戦傷病者とその家族等の戦中・戦後に体験したさまざまな労苦についての証言・歴史的資料・書籍・情報を収集、保存、展示し、後世代の人々にその労苦を知る機会を提供する国立の施設です》
http://www.shokeikan.go.jp/

告知はまだですが、ここで花森安治展を3月下旬から開催することになりました。その準備がはじまっています。近いうちに案内リーフもできるようで、いまからたのしみです。

左・『暮しの手帖「花森安治」保存版』 右・『考える人2011年夏号』

花森安治の戦争体験といえば、どうしても大政翼賛会での宣伝活動に従事したことに関心が集まりがちですが、その前は、花森じしんも満洲の前線に兵隊としておくられています。劣悪な環境で胸をわずらい帰還した傷病兵でした。

花森が和歌山の陸軍病院で療養していたころ、そこで見聞きし悟ったことなのでしょうか、戦傷によってからだが不自由になった人がふびんに思えても、いっときの同情心から手助けしてはいけない、その人が自立するのをさまたげることになる、と編集部でのお茶の時間に話していたのを記憶しています。

翼賛会時代、あるいは戦後の花森について、つねに距離をおくようなよそよそしさを感じたという証言があります。花森独特の気づかいが相手につたわったかどうか、それはわかりませんが、誰にたいしても気をつかいすぎるところがありました。その気づかいが、大政翼賛会時代について沈黙させた最大の理由であろう、とわたしは考えています。けっして臆病からでも保身のためでもない。

誤解をまねきやすい言葉があります。翼賛会での宣伝業務にたずさわったことをもって「花森は、一銭五厘のハガキを出す側にいたのに、被害者のような文章をかくのはおかしい」というものです。国家総動員法の施行を知らない人がきけば、翼賛会にいた人間は、召集が免除されていたかのように錯覚させます。

免除はありえません。同僚だった中山富久をはじめ、平凡出版(現マガジンハウス)をおこした岩堀喜之助、清水達夫らも翼賛会にいたとき召集され、ひどいめに合っています。傷病兵として現役解除されたはずの花森じしんも再召集されかかっています。だから家を焼かれる「空襲よりも召集がこたえた」と書きました。戦争末期、戦場から生きてかえれるとは誰もおもっていなかったからです。

戦後六〇年がたって、ようやく戦場体験者が重い口をひらくようになりました。「おめおめ生き恥をさらすよりも、仲間といっしょに死んだほうがどれほどらくか」——戦傷病者は、からだとこころの両方に、消し去りがたい傷を負った人々ではなかったでしょうか。その視点から、多くのひとに、花森安治の戦後のしごとを見ていただけるといいな、とわたしは願っています。ふたたび戦争の犠牲者をだしてはいけません。

戦争でうけた痛みは、体験した者にしかわからぬとしても、その後に生まれてきた者として、せめてその痛みを想像する力を失わないようにしたいとおもっています。



2013年1月24日木曜日

武器としての文字とことば

暮しの手帖 2世紀2号 1969


花森安治の編集者としての特質の一つに、文章を視覚からとらえていた点があります。できるだけ漢字をすくなくし、誌面を黒っぽく感じさせないよう工夫していました。といっても、それはけっして内容を軽くしたのではなく、漢字を多用することが重苦しい印象をあたえ、読むまえに拒絶されたくなかったからでしょう。どんなに立派な内容も、それが読んでもらえなかったら、文章にたくした役割ははたせません。

花森がこころみた工夫のなかで、これはとおもわれる文章が『暮しの手帖』2世紀2号によせた「国をまもるということ」でした。

「国をまもるということ」掲載面 <くに>が散見できる

この文章は、ぜんたいが397行、7千字たらずのエッセイですが、花森の文字づかいに、きわだった特徴があります。国を意味する文字を、花森は音訓とりまぜて全ぶで75回つかい、そのうち、国と漢字で表記したのが29回、ほかの46回はヤマカギをつけた平かなの<くに>でした。花森は文中、「ここで<くに>というのは、具体的にいうと、政府であり、国会である」と説明しています。

なぜ、そうまでして、<くに>という言葉を、読者に印象づけたかったのか。きっと、わたしたちが漠然とうけとめている国というものを、深く考えてほしかったからでしょう。平和憲法を変えようとするうごきが、日ましに強く高まってきているのを花森は感じており、さきの戦争で、庶民が<くに>からどんな目にあわされたか、思い出させたかったにちがいありません。

花森は、戦争で死んだ人たちやその遺族にくらべ「ぼくなどは問題ではない」としながらも、「学校を出ると、とたんに徴兵検査があって、甲種合格になった。ちょうど日華事変の勃発した年で、入営するとたちまち前線へもっていかれた。(改行)ずいぶん、苦労した。(改行)あげくのはてに、病気になって、傷痍軍人になってやっと帰ってきた」と、じしんの戦争体験をふりかえっています。

注目すべきは、「ぼくは、軍事教練に反対して出席しなかったから、将校になる資格はなかった。帰ってきたとき、上等兵であった。(改行)それを不服でいっているのではない。兵隊と将校では、おなじ召集でも(略)大いにちがうことをいっておきたかったからである」という一節です。とかく軍備増強をいう人は、じぶんは兵隊ではなく、安全な場所にいて指揮できる側に立てる、と過信しているフシがあります。品のよい言いかたではありませんが、こちらもじゅうぶん「平和ボケ」です。


暮しの手帖 2世紀8号 1970


花森安治の戦争体験にもとづくエッセイは、翌年の『暮しの手帖』2世紀8号によせた「見よぼくら一銭五厘の旗」で頂点にたっします。一銭五厘はハガキのねだんであり、将校とちがい兵隊は、ハガキ一枚でいくらでも補充できる「消耗品」のあつかいを受けたことを意味しました。このエッセイの冒頭で花森は、

ぼくら せいぜい 一銭五厘だった 
ぼくらの命や暮しなど 国にとって どうでもよかったのだ 
そして戦争にまけた 
民主々義の<民>とは ぼくらのことだと教えられた 
それを ぼくら うれしがって うじゃじゃけているあいだに 
二五年もたって 気がついたら 
また ぼくら 一銭五厘になりかかっている

と書きました。そして、あの有名な文章に到達します。


一戔五厘の旗 表紙 1971


民主々義の<民>は 庶民の民だ
ぼくらの暮しを なによりも第一にするということだ
ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつかったら
企業を倒す ということだ
ぼくらの暮しと 政府の考え方がぶつかったら
政府を倒す ということだ
それが ほんとうの<民主々義>だ

花森安治は、上掲二文をふくむ自選作品を『一戔五厘の旗』として一巻にまとめて上梓し、それにより昭和46年度読売文学賞をうけました。


わが思索わが風土 カバー 1974


ところが翌年、昭和47年6月、朝日新聞に5回にわたって寄せた「わが思索わが風土」の最終回、読者にはおもいがけぬことばが、花森から発せられます。

「生れた国は、教えられたとおり、身も心も焼きつくして、愛しぬいた末に、みごとに裏切られた。もう金輪際こんな国を愛することは、やめた」

「戦後だけでなく、明治以来、新聞のやってきた最大のマイナスは、といわれたら、やはり、こんどの戦争を、ついに防ぐことはできなかったことではないだろうか。(改行)ぼくに至っては、戦争を防ぐどころか、一生けんめい、それに協力してきたのだ。(改行)それだけに、若いころのぼくと、おなじようなことを、いまの若いジャーナリスト諸君が、ちらっちらっとやっている、それを見聞きするのが、つらい」

このあたりの文章は『花森安治の仕事』をあらわした酒井寛さんも着目しています。そして暮しの手帖の編集会議で録音された花森安治のナマのことばを、つづけて紹介しています。

「 もうちょっと、文章をじょうずになれということだ。ジャーナリストは、言葉を軽蔑しておったんでは仕事にならんぞ、自衛隊はどんどん訓練しとるわ。(中略)われわれは、なにを訓練しとるんだ。(改行)われわれの武器は、文字だよ、言葉だよ、文章だよ。それについて、われわれはどれだけ訓練しているか。それで言葉はむなしい。文章は力のまえによわい、なんて平気で言うんだ。ぼくは、そうは思わんよ」・・・


——ここで話を転じます。
ながながと花森安治の文章を紡いできたのには、わけがあります。わたしの推論をお聞かせしたかったからですが、それ以上に花森のことで新たな誤解を招きたくなかったからです。というのも前回のブログで、わたしは「日蓮のハッタリに学べ」という見出しに言及し、それを否定する趣旨のことをかきました。しかし、それだけでは意を十分つくしておらず、なお懸念がのこりました。

花森が「ハッタリに学べ」というとは思えません。しかしそれでも「日蓮の文章に学べ」という可能性まで、わたしには否定しきれないからです。わたしは「国をまもるということ」を再読し、花森の<くに>という文字とことばの使い方を追いながら、ある文章の存在がアタマから離れなくなりました。それは日蓮の『立正安国論』です。

正直にうちあけますと、『立正安国論』は、当時の作法にしたがって全文漢字で書かれています。わたしには読みこなせない文章です。だから元本にあたってたしかめたわけではありませんが、よく知られている本著の特徴の一つに、<くに>をあらわす文字が四種類も書き分けていることが指摘されています。

<くに>をあらわす漢字は、ぜんたいで72回も書かれています。そのうち、国(くにがまえに玉)は11回、國(くにがまえに或)は4回、くにがまえに王と書いているのが1回、そしていちばん多く56回にも及んで書いているのが、くにがまえに民という文字で、口の中に<民>をかいて<くに>を表現しているのです。

くにがまえに<民> とかく文字が、中国本家の漢字に実在するのか、あるいは圀(くにがまえに八方)という文字のように日本でつくられた国字なのか、わたしにはわかりません。ただ、文字から推察できるとすれば、日蓮は<くに>の字を書きわけることによって、<くに>とは何か、<くに>の何を守らねばならぬのか、時の執権や支配層、あるいは僧侶たちに訴えたのでないか、ということです。これを見え透いた小細工とうけとめるひともいます。しかしそれは現在の自由社会から考えてのことで、武力にものをいわせた統治下にあっては、ハッタリどころか、まさに剣に文字で立ち向かうことであり、いのちがけの上書だったことは疑いえません。

花森安治は「国をまもるということ」で、あえて<くに>という表記を46回もつかいました。日蓮は56回もくにがまえに<民>をいれて、<くに>とよませました。民の暮しを守ってこそ<くに>であり、王や土地が<くに>を成立させているのではない、それを文字によって、二人は示唆したようにおもえます。

余談ですが、花森安治は日蓮を祖師としてうやまう本門佛立宗という宗派の信者の家庭に育っています。子どものころは祖父につれられて参詣し、お寺のこども会で活躍したと伝えられています。拙著『花森安治の編集室』にもかきましたが、花森は日本の宗教者のなかでは日蓮を高く評価していました。

明治以降の国家神道教育のあやまちもあって、宗教(寺院)はうさんにおもわれがちです。しかし佛教が日本人の道徳規範や精神性にあたえた影響は大きく、日蓮の他宗攻撃にたいする好悪はあるにしろ、花森の著作のなかで「国をまもるということ」「見よぼくら一銭五厘の旗」の二編は、日蓮の法華経思想につらなる国家諫暁の文章である、とわたしはとらえています。

花森のナマのことばを、わたしへの戒めとして、この文章の最後にひいておきます。いまどき、こんなにも強い言葉を発せるジャーナリストがいるとは、わたしには思い浮かびませんから。

「あまっちょろい、きざな文章を書いていて、それで世の中が動くとおもうのか。相手の肺ふをえぐるということは、ピストルにはできんぞ。言葉はそれができると、ぼくは思う。(中略改行)
武力は、青春を投入し、欲望も投入し、それひとすじでやっている。おもしろおかしく世の中を渡って、しかも剣よりも強いペンを作ることができるとおもうのか」


2013年1月18日金曜日

徳川夢声の問答有用②


前回、このブログで紹介した『花森安治集 マンガ・映画、そして自分のことなど篇』には、徳川夢声との対談で花森がいった言葉が、抜粋され転載されていました。本篇にかぎったことではありませんが、花森のしごとを発掘するのは容易ではなく、ことに暮しの手帖以外のしごとは整理されておらず、編者の大へんな苦労と努力に、あらかじめ敬意と謝意を表させていただきます。


徳川夢声の問答有用② 朝日文庫カバー

書 名 徳川夢声の問答有用② 朝日文庫
著 者 徳川夢声
装 画 横山泰三
カバー 多田進
発行日 昭和59年10月20日
発行者 初山有恒
印 刷 凸版印刷株式会社
発 行 朝日新聞社
発行所 東京都中央区築地5−3−2
判 型 文庫 本文296ページ
定 価 420円


『徳川夢声の問答有用』は、各界の有名人をまねいて縦横に語らせた週刊朝日の名物連載で、昭和26年に始まっています。対談の名手とたたえられた元活動弁士の夢声に話を聞いてもらえることは、存在が認められたことを意味し、ゲストにとっては喜びであり名誉であったようです。花森安治は昭和28年5月10日号に登場しています。もういちど読みかえしてみました。

というのも最近刊の『花森安治集』をよみ、文中いささか懸念すべき「言葉」を見つけたからです。対談を抜粋したところの見出しに、太いゴシック体で「 日蓮のハッタリに学べ」とありました。はて、ふたりの会話の中に、そんなセリフがあっただろうか——抜粋された花森の発言には、ありません。そこで全文にあたってみることにしたのでした。

結果をさきに申せば、全文をくまなく読んでも、ありません。見出しにあった「日蓮のハッタリに学べ」という言葉は、どこにも認めることはできませんでした。それは花森の言葉ではなく、むろん夢声の言葉でもなかったのです。ふたりは日蓮の優れた表現力を話題にはしていましたが、日蓮をハッタリよばわりなど、一度たりともしていません。その言葉は、編集者じしんの日蓮にたいする偏見にすぎないのではないでしょうか。

日蓮のハッタリに学べ——そんな不遜かつ軽薄なことばを花森が吐くとはおもえませんが、たわむれにせよ花森がそれを言ったとすれば、天に唾する行為です。自分の存在としごとも「ハッタリ」であると、花森じしんが公言したにひとしくなるのですから——。花森と夢声が口をそろえて賞賛したのは、日蓮のことばの力、たくみな布教表現であって、ひとをあざむかんがための詐術でなかったことは明瞭。なによりかより、ハッタリに学ぶなんて、そんなケチな人生、さみしすぎるじゃありませんか。ざんねんにおもいました。

ところで小生は、夢声との対談中、花森のつぎの発言に注目しました。『花森安治集』では採用されていませんでしたから、僭越ながら下に引用転載して供します。


《週刊朝日にしても文藝春秋にしても、その号その号によって、内容は全部ちがう。つまり、新製品なんだから、毎号、新鮮な感じを出さなくちゃうそです。(改行)しかるに、週刊朝日の題字といい、文藝春秋の題字といい、いつも変っていないでしょう。何十年間、酒屋のこもかぶりみたいな字をつかっとる婦人雑誌もあるしね(笑)アメリカあたりの雑誌を見ると、ときどき題字をかえてる。》


かつて小生は、このブログでも、花森が『暮しの手帖』のロゴをひんぱんに変えていることを紹介してきました。上の発言のなかにも、花森安治の装釘の考え方の一端が、読みとれるのではないでしょうか。


【つけたり】徳川夢声の対談集は、昭和27年に朝日新聞社から順次単行本化され、ついで昭和59年に文庫化もされた。その後、深夜叢書社やちくま文庫も再編刊行した。おととし平成23年暮に発行された『KAWADE夢ムック 花森安治 美しい「暮し」の創始者』に、花森安治との対談のみ全文再録されている。

KAWADE夢ムック 花森安治 美しい「暮し」の創始者 2011

2013年1月13日日曜日

花森忌にささぐ

東京の正月三が日はよく晴れた。
ことに二日はおだやかな陽気にめぐまれ、いつものように青山のかえり芝により、家族と共に花森家の墓前に詣でた。

御佛前には遺影がかざられており、ことしもまた新しい三冊の本がお供えしてあった。きょねん出た花森安治の著作集。なくなってから三十有余年をへて、いかにも遅しのきらいがある。しかし上梓されたことは御家族を安堵させたであろうし、また刊行したかつての部員たちもそれらが佛前に捧げられ、大いに誇らしくおもったことであろう。泉下の編集長も満足しているとおもいたいけれど。


社会時評集 花森安治「きのうきょう」 カバー

書 名 社会時評集 花森安治「きのうきょう」
著 者 花森安治(1911.10.25ー1978.1.14)
装 本 新野富有樹
発行者 中村文孝
発行日 平成24年3月5日
発 行 LLPブックエンド
発行所 東京都千代田区神田錦町3−11−8武蔵野ビル
発 売 株式会社JRC
印 刷 ティーケー出版印刷
判 型 A5判変型 並製 本文176ページ
定 価 1500円(税別)




花森安治集 衣裳・きもの篇 カバー

書 名 花森安治集 衣裳・きもの篇
著 者 花森安治(1911.10.25ー1978.1.14)
装 本 吉原順一
題 字 小榑雅章
発行者 中村文孝
発行日 平成24年8月5日
発 行 LLPブックエンド
発行所 東京都千代田区神田錦町3−11−8武蔵野ビル
発 売 株式会社JRC
印 刷 モリモト印刷
判 型 A5判変型 並製 本文302ページ
定 価 1800円(税別)



花森安治集 マンガ・映画、そして自分のことなど篇 カバー

書 名 花森安治集 マンガ・映画、そして自分のことなど篇
著 者 花森安治(1911.10.25ー1978.1.14)
装 本 吉原順一
題 字 小榑雅章
発行者 中村文孝
発行日 平成24年11月20日
発 行 LLPブックエンド
発行所 東京都千代田区神田錦町3−11−8武蔵野ビル
発 売 株式会社JRC
印 刷 モリモト印刷
判 型 A5判変型 並製 本文280ページ
定 価 1800円(税別)


【あらずもがなの二言三言】
うえの三冊をよんでいて、小生がおもいだしていたのは「かんこうすいどう」ということばであった。それは昨年なくなった藤本義一さんが、後進の指導にくりかえしつかったことばで、耳になじみやすく、小生ごときボンクラも一ど聞いただけで憶えた。

漢字でかけば「観考推洞」——。
藤本は、観察・考察・推察・洞察の四文字をとって「かんこうすいどう」と憶え、アタマにたたきこめと教えた。観察とは、よく見ること。考察とは、よく考えること。推察とは、その因果にまで考えを深めること。そして洞察とは、目のまえの現象のおくにひそむ真理を見ぬくこと。それがほんとうの「考える」という行為だと藤本はいった。花森安治がかいた文章は、どれも花森の「かんこうすいどう」のあとが見てとれる。

おととし花森安治生誕百年のこと、東京新聞からたのまれて、伊那谷にくらす小生も寄稿の僥倖にめぐまれた。担当者から、花森のことばをひいて書いてくれるとありがたいとの要望があり、いまの時勢をかんがえて引用したのが「きのうきょう」に挟まれていたつぎの一節である。

《不景気を切りぬけたかったら、ほんとに親切な品を作ることだけを考えなさい。そういう商品だけが、過去の不景気を切りぬけてきたのだから》

——じぶんを目立たせようとするだけのはったりで、こんなこと書けるはずもなかろう。花森編集の『暮しの手帖』には、つねに親切な気持がながれていた。

斜に構えずに、正面から花森安治の文章にむかってほしい。クールビズなんて言っても、それは半世紀以上もむかしに花森が訴えつづけていたことであった。暮しをよくしたい、守るにあたいする暮しを身につけたい、そんな花森のあふれる思いが上の三冊にもこめられている。ことばは平易にして簡明、よめばわかります。

一月十四日は花森安治の祥月命日。東京は大雪にみまわれた。