2013年1月24日木曜日

武器としての文字とことば

暮しの手帖 2世紀2号 1969


花森安治の編集者としての特質の一つに、文章を視覚からとらえていた点があります。できるだけ漢字をすくなくし、誌面を黒っぽく感じさせないよう工夫していました。といっても、それはけっして内容を軽くしたのではなく、漢字を多用することが重苦しい印象をあたえ、読むまえに拒絶されたくなかったからでしょう。どんなに立派な内容も、それが読んでもらえなかったら、文章にたくした役割ははたせません。

花森がこころみた工夫のなかで、これはとおもわれる文章が『暮しの手帖』2世紀2号によせた「国をまもるということ」でした。

「国をまもるということ」掲載面 <くに>が散見できる

この文章は、ぜんたいが397行、7千字たらずのエッセイですが、花森の文字づかいに、きわだった特徴があります。国を意味する文字を、花森は音訓とりまぜて全ぶで75回つかい、そのうち、国と漢字で表記したのが29回、ほかの46回はヤマカギをつけた平かなの<くに>でした。花森は文中、「ここで<くに>というのは、具体的にいうと、政府であり、国会である」と説明しています。

なぜ、そうまでして、<くに>という言葉を、読者に印象づけたかったのか。きっと、わたしたちが漠然とうけとめている国というものを、深く考えてほしかったからでしょう。平和憲法を変えようとするうごきが、日ましに強く高まってきているのを花森は感じており、さきの戦争で、庶民が<くに>からどんな目にあわされたか、思い出させたかったにちがいありません。

花森は、戦争で死んだ人たちやその遺族にくらべ「ぼくなどは問題ではない」としながらも、「学校を出ると、とたんに徴兵検査があって、甲種合格になった。ちょうど日華事変の勃発した年で、入営するとたちまち前線へもっていかれた。(改行)ずいぶん、苦労した。(改行)あげくのはてに、病気になって、傷痍軍人になってやっと帰ってきた」と、じしんの戦争体験をふりかえっています。

注目すべきは、「ぼくは、軍事教練に反対して出席しなかったから、将校になる資格はなかった。帰ってきたとき、上等兵であった。(改行)それを不服でいっているのではない。兵隊と将校では、おなじ召集でも(略)大いにちがうことをいっておきたかったからである」という一節です。とかく軍備増強をいう人は、じぶんは兵隊ではなく、安全な場所にいて指揮できる側に立てる、と過信しているフシがあります。品のよい言いかたではありませんが、こちらもじゅうぶん「平和ボケ」です。


暮しの手帖 2世紀8号 1970


花森安治の戦争体験にもとづくエッセイは、翌年の『暮しの手帖』2世紀8号によせた「見よぼくら一銭五厘の旗」で頂点にたっします。一銭五厘はハガキのねだんであり、将校とちがい兵隊は、ハガキ一枚でいくらでも補充できる「消耗品」のあつかいを受けたことを意味しました。このエッセイの冒頭で花森は、

ぼくら せいぜい 一銭五厘だった 
ぼくらの命や暮しなど 国にとって どうでもよかったのだ 
そして戦争にまけた 
民主々義の<民>とは ぼくらのことだと教えられた 
それを ぼくら うれしがって うじゃじゃけているあいだに 
二五年もたって 気がついたら 
また ぼくら 一銭五厘になりかかっている

と書きました。そして、あの有名な文章に到達します。


一戔五厘の旗 表紙 1971


民主々義の<民>は 庶民の民だ
ぼくらの暮しを なによりも第一にするということだ
ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつかったら
企業を倒す ということだ
ぼくらの暮しと 政府の考え方がぶつかったら
政府を倒す ということだ
それが ほんとうの<民主々義>だ

花森安治は、上掲二文をふくむ自選作品を『一戔五厘の旗』として一巻にまとめて上梓し、それにより昭和46年度読売文学賞をうけました。


わが思索わが風土 カバー 1974


ところが翌年、昭和47年6月、朝日新聞に5回にわたって寄せた「わが思索わが風土」の最終回、読者にはおもいがけぬことばが、花森から発せられます。

「生れた国は、教えられたとおり、身も心も焼きつくして、愛しぬいた末に、みごとに裏切られた。もう金輪際こんな国を愛することは、やめた」

「戦後だけでなく、明治以来、新聞のやってきた最大のマイナスは、といわれたら、やはり、こんどの戦争を、ついに防ぐことはできなかったことではないだろうか。(改行)ぼくに至っては、戦争を防ぐどころか、一生けんめい、それに協力してきたのだ。(改行)それだけに、若いころのぼくと、おなじようなことを、いまの若いジャーナリスト諸君が、ちらっちらっとやっている、それを見聞きするのが、つらい」

このあたりの文章は『花森安治の仕事』をあらわした酒井寛さんも着目しています。そして暮しの手帖の編集会議で録音された花森安治のナマのことばを、つづけて紹介しています。

「 もうちょっと、文章をじょうずになれということだ。ジャーナリストは、言葉を軽蔑しておったんでは仕事にならんぞ、自衛隊はどんどん訓練しとるわ。(中略)われわれは、なにを訓練しとるんだ。(改行)われわれの武器は、文字だよ、言葉だよ、文章だよ。それについて、われわれはどれだけ訓練しているか。それで言葉はむなしい。文章は力のまえによわい、なんて平気で言うんだ。ぼくは、そうは思わんよ」・・・


——ここで話を転じます。
ながながと花森安治の文章を紡いできたのには、わけがあります。わたしの推論をお聞かせしたかったからですが、それ以上に花森のことで新たな誤解を招きたくなかったからです。というのも前回のブログで、わたしは「日蓮のハッタリに学べ」という見出しに言及し、それを否定する趣旨のことをかきました。しかし、それだけでは意を十分つくしておらず、なお懸念がのこりました。

花森が「ハッタリに学べ」というとは思えません。しかしそれでも「日蓮の文章に学べ」という可能性まで、わたしには否定しきれないからです。わたしは「国をまもるということ」を再読し、花森の<くに>という文字とことばの使い方を追いながら、ある文章の存在がアタマから離れなくなりました。それは日蓮の『立正安国論』です。

正直にうちあけますと、『立正安国論』は、当時の作法にしたがって全文漢字で書かれています。わたしには読みこなせない文章です。だから元本にあたってたしかめたわけではありませんが、よく知られている本著の特徴の一つに、<くに>をあらわす文字が四種類も書き分けていることが指摘されています。

<くに>をあらわす漢字は、ぜんたいで72回も書かれています。そのうち、国(くにがまえに玉)は11回、國(くにがまえに或)は4回、くにがまえに王と書いているのが1回、そしていちばん多く56回にも及んで書いているのが、くにがまえに民という文字で、口の中に<民>をかいて<くに>を表現しているのです。

くにがまえに<民> とかく文字が、中国本家の漢字に実在するのか、あるいは圀(くにがまえに八方)という文字のように日本でつくられた国字なのか、わたしにはわかりません。ただ、文字から推察できるとすれば、日蓮は<くに>の字を書きわけることによって、<くに>とは何か、<くに>の何を守らねばならぬのか、時の執権や支配層、あるいは僧侶たちに訴えたのでないか、ということです。これを見え透いた小細工とうけとめるひともいます。しかしそれは現在の自由社会から考えてのことで、武力にものをいわせた統治下にあっては、ハッタリどころか、まさに剣に文字で立ち向かうことであり、いのちがけの上書だったことは疑いえません。

花森安治は「国をまもるということ」で、あえて<くに>という表記を46回もつかいました。日蓮は56回もくにがまえに<民>をいれて、<くに>とよませました。民の暮しを守ってこそ<くに>であり、王や土地が<くに>を成立させているのではない、それを文字によって、二人は示唆したようにおもえます。

余談ですが、花森安治は日蓮を祖師としてうやまう本門佛立宗という宗派の信者の家庭に育っています。子どものころは祖父につれられて参詣し、お寺のこども会で活躍したと伝えられています。拙著『花森安治の編集室』にもかきましたが、花森は日本の宗教者のなかでは日蓮を高く評価していました。

明治以降の国家神道教育のあやまちもあって、宗教(寺院)はうさんにおもわれがちです。しかし佛教が日本人の道徳規範や精神性にあたえた影響は大きく、日蓮の他宗攻撃にたいする好悪はあるにしろ、花森の著作のなかで「国をまもるということ」「見よぼくら一銭五厘の旗」の二編は、日蓮の法華経思想につらなる国家諫暁の文章である、とわたしはとらえています。

花森のナマのことばを、わたしへの戒めとして、この文章の最後にひいておきます。いまどき、こんなにも強い言葉を発せるジャーナリストがいるとは、わたしには思い浮かびませんから。

「あまっちょろい、きざな文章を書いていて、それで世の中が動くとおもうのか。相手の肺ふをえぐるということは、ピストルにはできんぞ。言葉はそれができると、ぼくは思う。(中略改行)
武力は、青春を投入し、欲望も投入し、それひとすじでやっている。おもしろおかしく世の中を渡って、しかも剣よりも強いペンを作ることができるとおもうのか」