2015年2月20日金曜日

アラバマ物語 ハーパー・リー (追補再掲)

1964


書 名 アラバマ物語   
著 者 ハーパー・リー(1926−) 
訳 者 菊池重三郎(1901−1982) 
発行人 大橋鎭子
発行日 昭和39年5月15日
発 行 暮しの手帖社
発行所 東京都中央区銀座西8−5(初版)
印 刷 青山印刷株式会社 
判 型 B6版変型 並製 無線綴じ 写真共本文406ページ
定 価 420円


見返しなし 表紙ウラから始まるプロローグ


奥付

【ひとこと】原作は昭和35年にアメリカで発表され、いちやくベストセラーとなった。それを『暮しの手帖』第1世紀63号から71号まで、すなわち昭和37年から38年まで、二年間にわたって翻訳掲載し、昭和39年に単行本化した。その年、作者のハーパー・リーは38歳。いまも元気なのかしら。

ハーパーの自伝的小説といわれる本書は、ピュリッツア賞をうけ、グレゴリー・ペック主演で映画化もされた。物語は、アラバマ州の小さな町に暮す弁護士の父と幼い兄妹にふりかかった「事件」を描いたもので、表紙の少女は映画での妹スカウト役、これが幼かったころの作者といわれ、その兄のジェムは、隣家にすんでいたトルーマン・カポーティの幼いころがモデルであるという。

少女の写真の背景を切りぬき、表紙を白くしたところが清潔であり、いかにも花森安治の装釘らしい。表紙をめくって冒頭に「この美しい小説を」というフレーズをかかげたのも鮮烈だ。そして扉の文字組。うまいなあ。


表紙全体 少女は映画でのスカウト役メリー・バーダム


【ひとこと】訳者の菊池重三郎は、『藝術新潮』の初代編集長。昭和26年、暮しの手帖社から『英吉利乙女』と題するエッセイ集が上梓されている。その当時、花森安治は『藝術新潮』の座談会記事の常連で、ときに司会をひきうけているところをみると、編集企画にも助言していたのではないか。花森がさしでがましいのではなく、おもいついたことを口に出さずにはおられぬ性分であって、その花森の性分にたすけられたメディア人は、菊池だけではなかったはずだ。

ところで本書の訳文は、日本語として、きわめて上質である。その文章は漢字がすくなく、適度に改行してあって、見た目にゆとりがあり、柔和である。なめらかで、わかりやすく、すらすら読める。じっさい小学校高学年でも読める、りっぱで美しい日本語だ。翻訳ものには珍しい。——と思って、『暮しの手帖』連載時の訳文と、単行本のそれをくらべると、単行本のほうが、はるかに読みやすくなっている。わけを編集部の大先輩、故横佩道彦にきいたことがあった。花森は編集部員に「英和辞典に出ている言葉は日本語だと思うなと叱咤したという」と、みずから翻訳で苦労した経験をもつ山本夏彦もつたえている。諸賢のご想像どおりである、とだけ言っておきましょう。

本書は版をかさね、現在でも暮しの手帖社から刊行されている。税込価格1050円。この夏休み、お子さんといっしょに読んでみませんか。推理小説を読むような謎解きのおもしろさも味わえ、なにより人間の尊厳にふれることができます。
(2011/7/22記)


【2015/02/20補記】
さきごろ『アラバマ物語』の続篇が米国で刊行されると報じられた。原題「ゴー・セット・ア・ウォッチマン」といい、いささかの経緯があるようだ。

この作品は本篇執筆以前にかかれていたのだが、当時の担当編集者がよみ、主人公スカウトの視点を、大人になってからではなく、少女時代にしてかきなおすようアドバイスし、その結果できあがったのがベストセラーとなった『アラバマ物語』だというのである。つまり<続編>ではあるが、作品としては本篇より先にかかれており、紛れ忘れられていた本原稿が発見されて、ようやく刊行の運びとなったという。

この朗報でうれしかったのは、作者ハーパー・リーが89歳のいまも元気であること。また、おどろくにはあたらないのだろうが、日本で出版した暮しの手帖社の大橋鎭子さんよりも若かったことである。いまの日本には、功成し名をとげた著名人のなかに「差別ではなく区別だ」といいのがれてみずから怪しまない老作家がいる。鎭子さんは、ゆえなく差別する者を憎むひとであった。女手で娘三人をそだてた母親の大橋久子さんは、凛とした明治の女性であった。

編集者のだいじなしごとの一つは、作品の長短を問わず、それが世に出るにあたいするか否か、判断しなければならないことだ。 あいてが著名人でも、依頼してかいてもらった原稿でも、これじゃ出せないと判断すれば掲載版行しない。それが編集者の見識と矜恃というものであった。花森安治にはそれがあった。原稿をつきかえされ、書きなおしを求められた筆者の一人に永六輔さんがいる。永さんは後年、それでも二本ぶんの原稿料をもらったと正直にうちあけた。花森はけっして自由な言論を封じたわけではない。筆者をまもるのも編集者のやくめなのだ。くれぐれも誤解しないように。